すべての戦没者を家族のもとに~遺骨返還に向けてDNA鑑定を求め闘う異色の公務員~ #戦争の記憶
戦後77年をへても終わることがない戦没者の遺骨収集。近年は遺骨の身元特定にDNA鑑定が使われるようになったが、政府はこれを積極的に活用しているとは言いがたい。そんな政府の尻をたたき続け、限定的だった鑑定対象を次々に広げさせている「異色の地方公務員」がいる。大阪府の上田慶司さん(64)。上田さんが異色なのは、自身が現場で遺骨を掘り出す活動をするのではなく、政府との交渉といった後方支援に徹していること。もうひとつは、日本人だけではなく、「日本兵」として戦場に駆り出された朝鮮半島出身者らの遺骨も家族のもとに返す活動をしている点だ。戦争体験者だけでなく、その遺族も高齢となり、願い続ける父や兄の遺骨の返還を待たずに亡くなる人が増えてきた。時間との闘いがますます厳しくなる中、「すべての戦没者を家族のもとへ」と奮闘する上田さんの足跡を追った。
■6月はいつも沖縄
6月23日の沖縄慰霊の日。上田さんはこの数年、いつも沖縄にいる。ここで40年以上にわたり遺骨収集を続ける具志堅隆松さん(戦没者遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表)と共に、戦没者遺族にDNA鑑定の申請を呼びかけるためだ。発掘された遺骨には、身元を確認できる情報はほとんどないと言っていい。戦没者の身元を特定するには遺骨のDNAと遺族のDNAの照合が必要となるが、日本政府は遺族のDNA情報を積極的に集めようとはしていない。そのため、糸満市の「平和の礎(いしじ)」を慰霊に訪れる遺族へ直接、呼びかけているのだ。
国内で唯一の激しい地上戦があった沖縄県南部では、今でも遺骨が次々に見つかっている。ところが政府は、その土砂を辺野古の米軍基地建設で埋め立てに使おうとしている。具志堅さんはこの計画に強く反対し、沖縄のみならず、東京の全国メディアでも発信を続けている。一方、具志堅さんの右腕として活動している上田さんの素顔は、地元のメディアでもほとんど紹介されることはない。一体、どのような人物なのか。
■万年ヒラの地方公務員
上田さんは大阪のある自治体で住民登録の仕事をしている。万年ヒラ職員だが、DV(家庭内暴力)被害者の住所情報を加害者から守る取り組みについての論考が業界誌で連載されるなど、この分野では知る人ぞ知る存在だ。4年前に定年を迎え、いまは再任用で同じ業務に携わっている。
万年ヒラだったのは、若かりし頃、役所の生活保護費の締め付け政策に強く反対したことが影響しているという。ただ、本人は一向に気にしていない。「もともと出世を望んでないんですよね。出世よりも市民のためにできることをやりきりたい。その時に自分の役職というのがマイナスになるかも知れないと。どちらを選ぶかといったら、市民のために役立つことを最後までやりきる。そちらの方が大きなことですね」
■遺骨問題のきっかけは遺族との出会い
上田さんは、大学時代から平和運動に取り組んでいた。役所に就職してからも、活動は続けていた。特に力を入れたのが、戦争で徴用された韓国人被害者の問題だ。きっかけは10年ほど前、元徴用工が損害賠償を求めた訴訟に携わる中で、韓国の戦没者遺族の話を聞いたことだった。上田さんは、こう振り返る。
「どこで亡くなったのかもわからない、それを知りたいと、泣きながらお話をするわけですよね。やっぱりそれを聞いたら、我々責任っていうんですかね、お年寄りを、自分もだんだんそんな歳になってきてますけれども、それだけの年齢の方を泣きながら、みんなの前でしゃべらせた責任っていうのを、自分は取らなきゃいけないなと」
この時、上田さんは1人の遺族と出会う。ニューギニア戦線で16歳年上の兄を失い、その遺骨を捜しているナム・ユンジュ(南英珠)さんだ。
■兄を探しにパプアニューギニアへ
どうすれば遺骨を家族のもとに返せるのか。全く分からなった上田さんは、まずはナムさんに「現地に行こう」と提案する。ナムさんの兄、ナム・デヒョン(南大鉉)さんは、日本陸軍歩兵第80連隊の伍長だった。1944(昭和19)年 8月10日、東部ニューギニアの激戦地ヤカムルで戦死したとされる。
ニューギニア島に着くとスコールの影響で川が氾濫しており、陸路は使えない。このため、小型ボートで3時間半かけてヤカムルへたどり着いた。ナムさんは海岸で韓国の追悼儀式「チェサ」を行った。「お兄さん、どこにいるの」。ナムさんは叫び続けた。
帰国後、上田さんはナムさんから手紙を受けとる。そこにはこう記されていた。
「兄が殺されて、本当に悲しかった。だから日本人に対しても氷のような気持ちがあった。その氷が、溶けてきた」
■後方支援に徹し、DNA鑑定を求めていく
パプアニューギニアで上田さんは自らの限界と同時に、果たすべき役目に気が付いた。遺骨収集は、地方公務員が休日を利用してできるようなものではない。それならば、これまで戦没者の遺骨収集を続けてきた人たちの成果を活かし、遺骨を家族のもとに返すための下働きをするのが自分の任務ではないかと。
身元の分からない遺骨を家族のもとに返すには、DNA鑑定が不可欠だ。ただ、日本政府は当時、DNAが採取しやすい北方シベリアの遺骨か、名前が印された万年筆など個人を識別できる遺品が近くにあった遺骨だけしかDNA鑑定していなかった。どうすれば、収集されたすべての遺骨のDNA鑑定をさせることができるのか。考えあぐねる中で出会ったのが、沖縄で遺骨収集を続ける具志堅さんだった。具志堅さんは遺骨を収集するだけでなく、すべしての遺骨を家族のもとに返したいと、ひとりで奮闘していた。
■南方の遺骨にもDNA鑑定を
2013年11月、上田さんは、沖縄戦で父親を失ったクォン・スチョン(権水清)さんと共に沖縄に向かった。具志堅さんの調査によって、クォンさんの父クォン・ウンソン(権云善)さんの部隊は沖縄南部へ追い詰められ、玉砕していたことがわかった。父が逃げ込んだかも知れない、「ガマ」と呼ばれる自然洞窟。クォンさんはその中に入り、部隊最期の地でチェサをした。
これがきっかけとなり、上田さんは具志堅さんと行動を共にしていく。当時は戦没者の遺骨収集を「国の責務」とする「戦没者遺骨収集推進法」はまだ成立しておらず、沖縄をはじめ南方で見つかった遺骨のDNA鑑定はほとんど進んでいなかった。
■「ガマフヤー」の右腕となり
上田さんは具志堅さんと組み、DNA鑑定の問題を厚労省と直接、交渉していく。まず取り組んだのが、それまで軍人の遺族に限られていたDNA鑑定を、遺族に限らず地上戦に巻き込まれた沖縄の県民一般にまで広げることだった。そのため具志堅さんは沖縄で何度も説明会を開き、遺族の要望を集めた。
次に、それまでは遺骨の歯に限られていたDNA鑑定を、四肢骨(手足の骨)まで拡大することを求めた。「小さな遺骨でも取り戻したい」という遺族の願いをかなえるためだ。
同時に2人が訴え続けたのは、戦没者遺骨の問題は、地上戦があった沖縄だけのものではないということだ。フィリピンなどアジア太平洋地域で発見された遺骨は、慰霊のためとして長い間現地で焼骨されてきた。だが、焼骨されるとDNA鑑定は難しくなってしまう。2人は焼骨を中止するよう要請した。さらに、アジア太平洋地域で家族を失った遺族も鑑定の申請ができるように求め、21年10月からようやく始まった。こうして日本人のDNA鑑定は、その対象が少しずつ広がっていった。
■戦後77年の厳しい現実
一方で手つかずのままなのが、朝鮮半島や台湾出身者の扱いだ。この人たちも日本人と同じく「日本兵、または軍属」として亡くなっているのに、日本政府は日本人遺族のDNA鑑定しか行っていない。外務省は、韓国側と「返還のあり方」で合意できていないのがその理由だというだけだ。
8月5日、国会近くの衆議院議員会館で開かれた政府との意見交換会で、衝撃的な事実がわかった。
沖縄で本格的に遺族のDNA鑑定が始まってから約1800 人の申請がありながら、まだたった1人の身元しか特定されていなかった。一体、どこまで鑑定が進んでいるのか。厚労省の説明によれば、これまで収集された遺骨の中でDNAが抽出できたのは、歯から84検体、四肢骨から373検体だった。一方、これらと照合された遺族側のDNA情報は1061検体分に留まっていた。400人ほどの遺族は検体を提供したのに、一度も照合すらされていなかった。
この日の意見交換会では、韓国の遺族団体から戦後77年の厳しい現実も報告された。沖縄戦の遺族で、13年11月に沖縄南部のガマでチェサをしたクォン・スチョン(権水清)さんが、6月に亡くなったというのだ。上田さんとパプアニューギニアへ行ったナム・ユンジュさんも、2年前に他界している。
上田さんは訃報を受け、涙ながらに言葉を絞り出した。
「みなさん、お亡くなりになって、そういう話を聞く度にショックですわ。なんでこんな時間かかるのと思ったらね。自分の非力に情けなくなりますね」
クレジット
取材・撮影・編集 寺田和弘(パオネットワーク)
プロデューサー 金川雄策
映像提供 木村章子
写真提供 上田慶司、具志堅隆松
太平洋戦争被害者補償推進協議会
在韓軍人軍属(GUNGUN)裁判の要求実現を支援する会