最高の「いい顔」を死後に残す——残された家族の拠り所「遺影写真」を撮り続ける写真家の軌跡#ydocs
「亡くなった瞬間に、この写真が母になった」。母・由紀子さんを2021年10月に亡くした冨田直子さんは、机上に飾った母の遺影を見ながらこう話す。「撮ってもらったことを、こんなによかったと思うとは、思ってもいなかった」。まっすぐに正面を見据え、笑いかけている母の写真は、2009年に東京・中野の写真スタジオ素顔館で撮影された。撮ったのは、館主の能津喜代房さん(75)。2008年から遺影写真を専門に撮り始め、5千人以上の笑顔を写してきた。「あくまでも今日一日の元気な写真を撮るが、結果として遺影写真になったとき、家族の宝物になる」と能津さんは話す。「人にはいつか最期が来る。歳も取れば、病気にもなるし、自然なこと。死後、人がどうなるかはわからない。でも、写真を前に手を合わせることは、生きている人たち自身が納得できる」。私たちは誰かに残される者であり、同時に誰かを残していく存在でもある。故人を記憶する「遺影写真」を撮り続ける写真家と、その元を訪れる人々を取材した。(Yahoo!ニュース ドキュメンタリー)
●「心」が笑うスタジオ
「大きい病気もしたことない?」
「ないです。スズメバチに刺されて、3回目にちょっと入院しただけ」
「3回も?すごいね、お母さん」
スタジオに、笑い声とシャッター音が響く。撮影中は雑談に花が咲いたまま。「こっち向いて」「笑って」という決まり文句は口にせず、能津さんは写真を撮り終える。「心が笑うと、目が笑う。趣味は何ですかと聞いて、釣りが好きなんですよと返ってくる。釣りの話になったら、その人は楽しいことをぎらぎらして僕に伝えようとする。その時の顔は、最高にいい顔なわけよ」。能津さんは、そう言って目を細める。自然でその人らしい生き生きとした表情を切り取るのは、その写真が遺影となったとき、「家族にとって、『お父さんだ』と思ってもらえる写真にしたい」からだ。
遺影写真を撮りに能津さんの元を訪れる人の理由はさまざまだ。2021年10月、能津さんが群馬県桐生市の葬儀会場あすかホールへ出張撮影に出かけると、多くの人が「これを機に」と現れた。その一人、荻原京子さんは2017年に肺がんを患ったことが念頭にあった。「自分がいつ、どうなるかわからない。せめて写真ぐらいは子供たちに苦労をかけたくなかった」と明かす。
長年連れ添ってきた夫を先に亡くした石田裕子さんは、夫と同じくらいの歳のうちに自分の写真も残したいと考えた。「毎日鏡を見ると、自分だけしわが増えて歳を取っていくのが寂しい。だから、いまのうちに撮っておいたほうがいいかなって」と石田さん。夫の遺影を肌身離さず大切に持ち歩いていた。
●おろそかにされがちな遺影
訪れる人の中には、親族を亡くした際に遺影となる写真を探すのに苦労した経験がある人も多い。年間46万枚の遺影写真の加工を行い、約30%のシェアを占めるアスカネットの葬儀に関する調査(2018年)によれば、喪主の経験や近い親族を亡くした経験がある人の23%が、「遺影に使う写真の原板選び」を一番困ったことに挙げている。フューネラル事業部企画広報担当の青砥剛さんによれば、近年は福祉施設で終焉(しゅうえん)を迎える人が増え、施設で撮った集合写真のように親指サイズで写っているものを引き伸ばしたり、家族がプリントで出力したりしたものを加工するケースが増えているという。
能津さん自身、2008年に60歳で遺影写真を撮り始めたのは、親族の遺影にふさわしい写真がなかったことがきっかけだった。元々は広告写真のカメラマンとして40年のキャリアがある。葬儀に参列するたびに、旅行に行った時のスナップ写真を拡大したような写真が祭壇に飾られているのを見て、「寂しい写真が多い。どうして元気なうちに撮っておかないのだろう」と思っていた。その矢先に恩のある義父が亡くなったが、遺影用の写真は撮っていなかった。後悔の念が募った。せめて自分の親だけはと、父と母の写真を撮った。
「これから撮る写真は、死んだら遺影にするからね、とか言ってさ。親父がにこって笑った瞬間がこれ」。そう言ってスタジオに飾られた1枚の写真を指す。その後両親は他界し、その写真が遺影になると、不思議な経験をしたという。「写真ができあがったときに、親父と話ができた。すごいうれしかった。こういう写真を撮れば、家族の宝物になる」。遺影写真を本格的に始めることに決めた瞬間だった。
●写真が「本人」そのものになる
素顔館に両親を連れて訪れた冨田直子さんも、「写真の力」を痛感した一人だ。2009年に撮影してから、自宅には両親の写真が飾られていた。冨田さんは「亡くなってはじめてその威力を知った」という。「まだ早いわよ、遺影なんて」。母・由紀子さんにこう笑われながら、妹と2人で両親に写真をプレゼントした。由紀子さんは2年後の2011年に認知症にかかり、父の元次さんも2001年から患っていた網膜剥離により視力が低下していった。10年にわたる由紀子さんの介護生活をへて、元次さんは先に妻を看取った。
「この辺から見ると、にこっと笑ってね。こちらから見ると、真面目になったりね。それを利用して話しかけたり、接してます。本当に能津さんのおかげ」。愛妻の遺影をながめながら、元次さんはこう話していた。
その父も約1年後の2022年12月24日、まるでクリスマスイブに「母とのデートに出かけるように」亡くなった。「父は、写真が母だと思って生きていた。『ママが待っているから早く帰ってあげなくちゃ』って、『ただいま』って帰るくらい、写真を本人だと思って大事にしていた」と直子さん。元次さんは由紀子さんの写真を抱え、ベッドで一緒に寝ることすらあったという。
直子さんは今、二人の遺影写真を一つの手帳型の写真立てに入れている。仕事机に置いたりしては、よく話しかける。「亡くなった瞬間から、この写真に話しかけるようになった。元気だった頃の二人の写真だというのもあって、元気に語りかけてくる。写真が話し出すような感覚」だという。特に「目の奥にある力がこちらに向いているから、ねぇママ、パパって相談できる相手になる」
直子さんにとって、能津さんが撮った写真は「ここまで母らしい写真はなかなかない」という特別な一枚なのだという。両親が自分たちで納得して選んでいることも、人に見せることの多い遺影写真として安心感がある。二人並んでほほ笑む姿を見て、「いまは二人が同じ世界にいてほっとしている」と直子さん。
●きれいな写真ではなく、純粋な写真を
「広告写真の時は、いい写真、きれいな写真を撮ろうと思っていたけど、それとは全然違う。遺影写真は、自分のため、家族のためだけに写真を撮りに見えてる方だから、純粋。だから裏切れない」と能津さん。
そばで支えてきた妻の恵子さん(74)は、夫と客との関係に驚かされるという。「写真館にお土産を持ってきたり、お礼状が送られてきたりする。お客さんとの関係ではなく、人との関係がある。主人が撮る写真の魅力なんだと思う」。
「財を残したいとか名を残したいとかいうのは何もない。たぶん何も残らないだろうしね。ただ、自分が撮った写真は残る。かっこいいね」と能津さんは照れくさそうに笑う。「でも、本当に思うの。その家に僕が撮った写真が飾られて残ってるんだなと思うと、すごくうれしい」
写真館で撮影した写真は、できるだけ早く仕上げることにしている。自分がいつコロナなどの病気にかかるか、わからないからだ。「80歳まで現役でいたい」と、両親の写真がほほ笑みかけるスタジオでシャッターを切り続ける。
「僕が死んで、もし向こうで両親に会えるとしたら、胸を張って会いに行ける。たぶん、よくやったって抱きしめてくれると思う」
【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】
監督・撮影・編集・記事:田之上裕美
プロデューサー:金川雄策
記事校正:国分高史
協力:井手麻里子