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七光りへの批判など何のその。 シャネルやディオールが木村姉妹に強くこだわったのはなぜなのか?

齋藤薫美容ジャーナリスト・エッセイスト
CocomiとKoki,デビューのモデルケースは、リリー・ローズ・デップ?(写真:REX/アフロ)

親の七光りにも2種類ある。スティーブ・ジョブズの娘など別格の2世たちは貴族的な光を放つ?

七光りに対する批判も承知の上で、 世界的なトップブランドが2世タレントに強いこだわりを持つのはなぜなのか。そこには、七光りにも2種類あるという、見えざる構造が見えてきた。

新型コロナ報道の中で、文字通りの異彩を放ったのが、木村拓哉と工藤静香の長女、Cocomiの華々しいデビューだった。なぜこの時期に?とも思うが、これは表紙を飾るVOGUE JAPANの発売とアンバサダーとなるディオールのプロモーションのタイミングであっただけ。しかしこの混乱の中でもネット系ニュースを席巻、注目度の高さを見せつけた。

ただ登場感のインパクトは、やはり2年前の次女Koki,の時の方が大きかったのかもしれない。何しろ15歳でエルジャポンの表紙、ブルガリのアンバサダーに続き、いきなりシャネルのビューティーアンバサダーを務めるという異例のデビューを遂げたのだから。

パターンとしては長女も全く一緒、外資系有名雑誌と世界的なトップブランドという組み合わせ。これ以上ないほどステータスの高いコラボによる、完全無欠に固められたデビューシナリオは、今回も”成功“を見たと言って良いのだろう。

案の定、両親+妹で合計「21光り」とまで揶揄する声もあるものの、一体それの何がいけないの?とばかりの堂々たる七光りデビューはいっそ清々しいとの声も。

いや実際名だたる雑誌やトップブランドがこぞってこの姉妹を最大級の扱いで起用するのは、そうした批判も承知の上の「血筋マーケティング」とも言えるものがあるからなのだ。

ハリウッドには、別格セレブ・ジュニアたちが作る確固たる市場が存在する。つまりただのセレブじゃない、ロイヤルファミリー級のステータスを誇る、スーパーセレブたちのジュニアは平然と顔出ししてアイドル化し、着た服や使ったオモチャはアッという間に完売、みたいな現象を生んでいる。彼らは幼い頃からカリスマで、七光り的な批判はほぼ受けずに育つのだ。

ハリウッドにこの傾向が強いのも、貴族が存在しないが故にクラスを作りたいアメリカでは、ステータスを継承する血筋そのものに価値を見いだすからなのだろう。

例えば、スティーブ・ジョブズの次女イブの人気が今や大変なことになっていて、その対抗馬としてビル・ゲイツの娘の存在も取り沙汰されるといった具合。こうした別格の2世は、七光りを非難されるどころか、逆に光を3倍も5倍も多く纏うことになるのだ。

そういう意味で、別格2世を創造した血筋マーケティングとして象徴的なのは、やはりジョニー・デップとヴァネッサ・パラディの娘である、リリー・ローズ・デップだろう。両親の両方に似ている上に、才能にも恵まれた最強の遺伝子は、15歳でいきなりシャネルに起用され、16歳で正式にシャネルNo.5ローのミューズとなっている。また同時期に女優としての活動を始めるや否やフランスのセザール賞など複数の映画賞でノミネートされるという快挙を成し遂げた。木村家ジュニアも彼女をひとつのモデルケースとしたのではないか。

人間には“有名遺伝子”をひたすら見たい、拝みたいと言う本能がある

申し訳ないけれど2世もいろいろ。2世だからもてはやされる訳ではない。リリー・ローズの場合は「作者」も偉大なら「作品」も稀に見る傑作だからこそ、とりわけ慎重な超一流ブランドさえもが大人になるのを待ちきれず、全く未知数の少女に最大の舞台を作ってしまう訳で、これは一般的な七光りとは一線を画すカテゴリーがあることの証。それも、私たちには理屈抜きに“有名遺伝子”に心惹かれるという心理があるからではないかという気がする。

とても単純に、著名人の娘だ息子だというだけで、他意はなくともかくその姿を一度見てみたいと思うのが、一般的な認識だが、これが一流セレブとなると、単なるミーハー的な興味を超え、その姿を拝みたい、仰ぎ見たいとするのは、ある種人間の本能であるような気がするのだ。

偉人、貴人、第一級の有名人、彼らの子孫を見てみたい。ひたすら見たいと言う衝動は、ひょっとすると人類の歴史において、有無を言わせぬ君主制に無駄に抗わず、素直に従うためのDNAが自然に備わっていった結果ではないか。つまりそれが、大名行列のように彼らの通るための道を開け、彼らを密かにでも眺めたいという憧れにも似た服従につながっていった。逆に言えば人々は、視覚によって支配されていたのだ。

ちなみに、親の七光りとはあくまでも「権力ある親を持った子供が、その恩恵を受けること」であり、いわば反射光を受ける立場で、本人は光を発していないと言う話になるが、偉大な親を持つ子供は現実に光を発してる。具体的な恩恵を受ける前に、彼らは、自らある種のオーラを発光しているのだ。貴族の家に生まれた子供は貴族の子と言うだけで光を放ち、スーパーセレブの子供はスーパーセレブの子と言うだけでキラキラ輝く。そこには明らかに、世に言う七光りとは全く違う光が存在することがわかるはずだ。

文化芸術の匂いが、2世オーラをさらに神秘的なものにし、光の錆止めになる

別格2世の中でも親が大物であればあるほどオーラの瞬発力も大きなものとなる訳だが、日本では、小沢征爾の娘から国木田独歩の玄孫まで、一流文化人の娘や孫はそれこそ破格の扱いを受け、鮮烈なデビューを果たしてきた歴史がある。

それは、文化人の持つ文化芸術の匂いが、別格オーラにさらなる神秘性を加えることを物語る。光自体のクオリティーも高まり、勢い貴族的なまでの光輝性を放って、まっさらデビューの時の訴求力は大変な価値を持つことになるのだ。

ここで思い出してほしいのは、木村家の姉妹がいずれも「音楽家」としての顔を持って登場したこと。だからこそ売り手としてこの上なくステータスの高いラグジュアリーブランドを選べたはずで、まさに両者の利害関係が一致した形。天下のシャネルやディオールが、木村姉妹に強くこだわるのも、マーケティング的に当然のことなのである。七光りへの批判など何のその、そういうものを差し引いても、多大なメリットがあったはずなのだ。

ただし、いかに偉大な親の血筋をひいていてもオーラを放てるのは最初だけ。見慣れてしまえばただの人。結果的に、本人に魅力や才能がなければ消えていくのみ。ましてや、登場時の爆発的な話題性で知名度が一気に上がった分だけ、活躍できなかった場合、一般的な七光り以上に世間の風当たりは強くなる。

そういうリスクもわかった上で木村家の姉妹が、この別格血筋マーケティングに挑むことができたのも、やはり今回のデビューは、女優でもモデルでもなく演奏家、フルーティストとしてのキャリアのスタートという布石を打てたからだろう。これはオーラの光の錆止めとして、ベストなチョイスだったと言える。

そのプロフィールには、日本奏楽コンクール最高位とあるが、このコンクール自体まだ3回目と歴史が浅く、そういう意味では未知数だけれど、クラシック界ではこうした受賞歴が何より重要なスペックとなる上に、もともと需要と供給のバランスが悪い業界で、実力があってもなかなか日の目を見られない厳しい市場、そんな中では木村家の血筋という特異性がモノを言うことになるかもしれない。次女もまた、モデル兼「作曲家」というプロフィールを掲げているのだ。

かくして姉妹に音楽の英才教育を施しつつ、インターナショナルスクールに入学させて語学も堪能と、驚くほどにスキのない輝かしいプロフィールを与えたのは見事と言うしかないし、次女→長女と言うデビューのタイミングまでまさに絶妙。

いや、木村拓哉との結婚から始まり、2人のDNAをグローバルなステージに乗せると言う、壮大なプロジェクトを着々と成し遂げようとしている工藤静香は、プロデューサーとして本当にあっぱれ!! やはりここはどうしても、そういう結論に至ってしまうのである。

美容ジャーナリスト・エッセイスト

女性誌編集者を経て美容ジャーナリスト/エッセイストへ。女性誌編集者を経て独立。女性誌において多数の連載エッセイを持つ他、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザーなど幅広く活躍。『されど“男”は愛おしい』』(講談社)他、『“一生美人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)、『されど“服”で人生は変わる』(講談社)など著書多数。

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