ALS女性が医師2名により「安楽死」した問題の異例さ 「今必要なこと」を考える
4連休初日に大きく報じられた事件
新型コロナの患者数が増加し、迎えたGo To Travelキャンペーン。
その初日に大きく報じられたのが、神経難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患う女性の依頼により、医師2名が薬物投与を行い、女性は同日(2019年11月30日)死亡したというニュースでした。
女性は2011年頃に同疾病を発症し、死亡する直前は発語や手足を動かすことができない状態だったとされます。
一方で意識ははっきりしており、メールなどで発信でき、障害福祉サービス「重度訪問介護」を利用して1日24時間、ヘルパーから生活全般のケアを受けながら1人で暮らしていたとのことです。
参考;ALS女性安楽死事件、医師2人の逮捕を発表 薬物投与した嘱託殺人の疑い
医師の来歴などについてはすでに報じられていますし、また刑法の側面からの解説は他の識者が行うでしょうから、私は神経難病の患者さんを拝見した経験が少なからずある医師としての立場で感じたことを皆さんにお伝えしたいと思います。
なお、有名な1991年の東海大安楽死事件で示された、違法性阻却事由の4要件である
- 患者が耐え難い肉体的苦痛に苦しんでいる
- 死が避けられず、死期が迫っている
- 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がない
- 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある
に関しては、2と3が合致するか不明確なところがあり、したがって京都府警は「安楽死とは考えていない」としています。
また本稿は善悪を判断したりするものではなく、発展的議論の下地を提供するものであることを確認しておきます。
本事件の新たな点
私は本事件の記事が出た際、次の点がこれまでの事件と異なると考えました。
・実行者が担当医ではない
・死が目前ではない可能性が高い患者
・赴いて致死的薬物を投与
・医師2人で行っている(1人の判断ではないと示す意図もあったか)
患者と医師を結びつけたのはSNSであり、それもまた新しいものであったと考えられます。
日本では比較的なんでも安楽死と呼ぶ傾向があり、筆者も一度記事を書いたことがあります。
何でも「安楽死」と呼びすぎる日本 「医療的幇助自殺」、「鎮静」との違いは
なお、今回ニュースでもまた報じられた「消極的安楽死」という言葉ですが、最近の考えでは「治療の差し控えと中止」と呼ばれ、使用されなくなってきていますが、狭義の安楽死つまり医師が致死的薬物を使用して死に至らしめること(つまり今回のようなケース)とは実際にはだいぶ違いがある行為です。
そのような行為にまで未だに安楽死と呼称することが、より広い意味で安楽死という言葉が使われることに関係しているかもしれません。
筆者がつねづね問題だと感じているのは、このような安楽死の範囲の話をすると必ず、「死にたいと思っている人にはどれも同じ」「言葉をこねくり回しているだけ」という意見が出てくるのですが、真剣に今後の安楽死を考える時に、それはふさわしい姿勢なのだろうか、というものです。
もし今後真剣にこの問題を考えて、制度として考えるならば、どこまでを認め、どこまでは認めないかを議論する必要が生じるでしょう。そのため、当事者の思いは理解しつつも、定義について理解して共通の土台をもとに話し合うことが重要だと感じます。
2019年6月にNHKスペシャルで報じられて話題となったドキュメンタリー「彼女は安楽死を選んだ」では、神経難病の多系統萎縮症を患う50代前半の日本人女性がスイスに渡航して、処方された致死的薬物を自ら使用して死に至っており、これは安楽死ではなく「医療的幇助自殺」と呼ぶものでした。
本件はこれまで日本であった、担当医が苦しむ患者や家族から要請を受けてあるいは診療を行っていて見るに見かねてという形ではなく、赴いて致死的薬物を使用しており、その点に関してはこれまでとは異なった特徴があります。
今回のケースについては今後様々なことが明らかにされるとは思いますが、その時々では話題になるもどうも深まらない安楽死などに関しての議論は、賛否を問わずそれはそれで促進してゆく必要があると考えられます。
苦痛を除去・緩和するために方法を尽くすことの大切さ
前述の安楽死の違法性阻却事由の4要件のうちの一つ「肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がない」は重要と考えます。そして苦痛緩和の観点からは、肉体的苦痛にとどまらない精神的苦痛緩和や存在のゆらぎに対する苦悩へのケアも提供される必要があります。
安楽死や死ぬ権利に関しては「議論を」という声がよく出て来ます。
一方で、気がかりなこととして、様々な「病気の進行期や終末期はあまりに悲惨で、なぜ安楽死が認められないのか」などという論調も見かけることです。
また安楽死の言葉はよく知られている一方で、患者の苦しみを和らげる緩和ケアという手段があり、すべての病者が耐え難い苦しみの中で最後の時間を過ごしているわけではないこともよく知られているとは言い難い状況です。
指摘されているように、心身の苦痛を和らげる支援が不十分であれば、もしそれが十分だったならば死の希求一辺倒にならなかった方が死を望むということが考えられます。
ただしこれはそれで全ての患者さんが救われるということを言っているのではなく、安楽死などの議論を深めることが不必要だと言っているわけでもなく、「苦痛をできるだけ少なくして、より良く生きるためのケアが不十分ではいけないでしょう?」ということです。
それが不十分ならば、本来は生きて、その時間に望むことをもっと行うことができた、そしてそれが本来の希望であった方が、本当の希望と異なる死を選ばざるを得ない状況になってしまうこともありうるだろう、ということです。
筆者は、ALSの緩和ケアに意欲的な神経内科を持つ病院で働いていたため、様々なケースで緩和ケア医である筆者に介入依頼が来ました。
ALSの患者さんも息苦しさや痛み、心理的なつらさなど様々な苦痛を経験し得ます。もちろん患者さんの苦悩をすべて取り去ることはできませんが、緩和ケアの介入による薬の調整や訴えを聴くことで、だいぶ楽になった、それでも生きやすくなったと伝えられることもありました。
現在、国の医療費の問題もあると考えられますが、病院の緩和ケアチームが関わって診療報酬が発生するのは、がんとAIDS、末期心不全のみです。
本来は病気を問わず緩和ケアが必要ですし、世界的にはほとんどの慢性病が対象に含まれると捉えられています【参考;緩和ケアの対象疾患】。
筆者は、ALSなどの神経難病にも緩和ケアチームの診療報酬が認められてほしいと考えます。
診療報酬が発生することで、緩和ケアチームは当該の疾病の患者さんにより関わりやすくなります。それがなければボランティアとなるからです。そしてそれにより、当該領域の緩和ケアがより発展し、それは各々の患者さんにとってメリットになるでしょう。
数々の心身の問題が発生し、次第に機能低下が生じるという病気の特性による大きなストレスや、生死に関わる治療を選ぶ・選ばないの問題における意思決定の支援など、緩和ケアが支えられる側面はきっとあるはずで、それが神経難病の患者の生活の質の向上に寄与すると考えられます。
筆者の20年あまりの臨床経験の中でも、とりわけ強く安楽死を所望された患者さんが少数おられますが、それらの患者さんががんではなく神経難病であったことも強い印象として残っています。
安楽死や死ぬ権利が度々話題になる一方で議論が深まらず、それはそれとしてより進展を期待する一方で、生活の質をできるだけ上げることや、そのサポートの名称―緩和ケア―も知られてほしいと願います。
そして、しばしば生活の質の障害から苦痛・苦悩が強い状況に陥るALSなど神経難病に関しても、緩和ケアの医療保険上の適用が為されてほしいと願うものです。