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カトリックはなぜペドフィリアに侵されるのか

橘玲作家
(写真:ロイター/アフロ)

全世界で12億人の信者がいるカトリックの総本山バチカンが、少年への性的虐待事件で揺れています。この問題は長らく指摘されてきましたが、法王庁など教会上層部は不祥事の発覚を恐れ、真相の解明を怠り事件を隠蔽したときびしく批判されているのです。

きっかけは2002年、ボストンの地方紙が教区司祭の性的虐待を大々的に報道したことで、アカデミー作品賞を受賞した映画『スポットライト 世紀のスクープ』でも描かれました。私はたまたまその時期にニューヨークにいましたが、連日、テレビや新聞で大きく報道されるのを見て、こんなことがあるのかと驚いたのを覚えています。

事件の背景には、カトリックの司祭が終身独身で、女性との性的交渉を禁じられていることがあるとされます。若い男性が共同生活する修道院や神学校は「ボーイズラブ」の世界で、イタリアの国際神学校では入学者の多くがゲイであることは公然の秘密だそうです。

同性愛を認めるかどうかはカトリックの教義にかかわる大問題ですが、リベラルな社会では成人同士は自由恋愛ですから部外者が口をはさむようなことではありません。「女性と交わってはならない」という戒律を課せば、それを苦にしないひとたちが集まってくるというだけのことで、少年への性的虐待とはまったく別の話です。

2018年、国際援助団体オックスファムの職員がハイチや南スーダン、リベリアなどで買収やレイプをしていたことが報じられ、幹部が引責辞任しました。あるフランスの女性ジャーナリストがIS(イスラム国)幹部に接触しようとしたところ結婚を強要され、生命の危険にさらされました。フランス生まれのその男は窃盗から強盗までありとあらゆる犯罪に手を染め、イスラム国では拷問と虐殺を専門にしていました。

一見無関係なこの話題は、カトリックの不祥事とどうつながるのでしょうか。もちろん、「国際ボランティアは買春目的だ」とか「イスラーム原理主義者はみんなサイコパスだ」ということではありません。ここでいいたいのは、「特異な環境は特異なひとたちを招き寄せる」という単純な法則です。

若い女性と好きなだけセックスを楽しみたい男は、国際的に著名な援助団体を隠れ蓑にすれば、貧しい国に安全に滞在し高い地位を使って性欲を満たせることに気づくでしょう。暴力への異常な欲望をもつ人間はどんな社会でも一定数いるでしょうが、もしも彼がムスリムであれば刑事罰を恐れる必要はありません。「イスラム国」へ渡れば、好きなだけ拷問や殺人ができるのですから。

同様に男児のペドフィリア(児童性愛者)は、市民社会では許されない暗い欲望を満たすための格好の場所をカトリックのなかに見つけるでしょう。そこでは少年聖歌隊やミサを補助する侍童など、たくさんの男児と堂々と接触できるのですから。

そのうえ彼らは、偏った性欲以外はごくふつうで、仕事のできる愛想のいい人物であることも珍しくありません。こうして教会の位階を上がっていき、事件が発覚したときには取り返しのつかないことになっているのです。

このように考えると、バチカンがこの問題に及び腰な理由もわかります。カトリックの教義そのものを変えないかぎり、ペドフィリアはどこからともなく侵入してくるのです。

参考:アンナ・エレル『ジハーディストのベールをかぶった私』(日経BP社)

『週刊プレイボーイ』2018年10月1日発売号 禁・無断転

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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