韓国で小中学生を対象にVRで北朝鮮の人権侵害を仮想体験…「怖い」との反応も
●韓国政府が推進
昨年5月の発足以降、北朝鮮政策の基調を「対話」から「圧迫」へと転回した韓国の尹錫悦政権。
日米韓の軍事連携を深め北朝鮮の核兵器への抑止力を高めるかたわら、金正恩政権による北朝鮮住民への人権侵害を追及する姿勢を明確にしている。
先月末には外交政策を一手に握る高官が「北韓(北朝鮮)人権問題は対北韓政策の本質」と述べるなど、民主主義国家の韓国が持つ優位性を生かした北朝鮮批判のボルテージを高め続けている。
そんな中、韓国市民を対象に統一教育を行う国家機関『統一教育院』が驚きのプログラムを開発したという一報が飛び込んできた。VR(仮想現実)を通じ、韓国の小中学生に北朝鮮で起きている人権侵害を体験させるという。
7日、同院は「今月、全国の小中学校10校約1600人の学生を対象に仮想現実(VR)を通じた『統一安全保障教育』を行う」と発表した。
筆者が電話取材を通じ同院に確認したところ、今月1日の釜山を皮切りに、11日のソウルまで既に5校で実際にプログラムが運用されたとのことだった。
なお、統一教育院とは、学生から社会人などあらゆる韓国市民を対象に統一教育を行う機関で、交流協力や南北対話、企業進出など南北関係を受け持つ統一部(統一省)の傘下にある。
●青少年が韓ドラ観て「犯罪者」に、劣悪な都市環境の体験も
具体的な教育内容を見てみよう。主人公の中学生となって体験するプログラムは大きく二つに分かれる。
まず『北韓の一日』では、▲美術の時間に自由に絵を描いたことで「自己批判」をさせられる、▲医薬品が足りないためしっかりした治療を受けられない、▲韓国のドラマを観たことで『反動思想文化排撃法』により犯罪者となる、というシナリオを体験する。
補足説明をすると「自己批判」とは、他人の前で自らの行動がいかに間違っていたのかを批判するもの。正しさの基準は朝鮮労働党や歴代の最高指導者の教えとなる。
また『反動思想文化排撃法』というのは20年12月に制定された、韓国や米国の映画やドラマ、本や歌などを「見たり聞いたり保管した者、流布した者」を罪に問う法律だ。単純な視聴から流入・流布といった「段階」ごとに罰則が分かれており、5年以下の労働教化刑(懲役)や最高で死刑といった過激な内容が広く知られている。
このシナリオでは、労働教化刑による強制労働を体験するといった内容も含まれている。
もう一つは『明らかになった今日の北韓』というもので、ここでは、▲ドローンを操縦し北朝鮮の住宅の劣悪な現実を把握し、▲自動車を運転し老朽化した北朝鮮の道路状態を体験する。
その上で、韓国と統一する際に起きる住宅と道路の変化を第4次産業革命(AIや自動運転など)の技術と合わせ想像するというものだ。韓国への吸収後の世界を描いている。
なお、統一教育院ではVRを活用した今回の新プログラムの目標について「VRコンテンツを活用し、未来の主役である青少年たちに統一を現実感をもって教育し、統一についての共感を拡散させる点」にあるとしている。
また「韓国の青少年が北朝鮮の青少年の実情と人権状況を知り、これを基に統一教育の方向性について考える時間を持ち」、「自由と統一について考える」ともしている。
●どう見るか、三つの視点
統一教育院の関係者が「初めての試み」と明かす新たなプログラムを前に、筆者は複雑な思いを隠せなかった。それは三つの視点に整理できる。
まず、北朝鮮は本当に遠くなったなとしみじみ思った。
金大中政権(98年2月〜03年2月)時に活性化した南北間の人的な往来は、開城工業団地の稼働や金剛山・マスゲーム「アリラン」観光などで増え続け、06年から15年までは年間10万人を超えていた。
しかしここ3年は新型コロナによる国境封鎖と南北関係悪化のため往来はゼロ。北朝鮮の住民に限る場合、19年以降には脱北者を除き、誰一人韓国の地を踏んでいない。
その脱北者も21年と22年には年間100人を切るなど、北朝鮮はもはや完全に「秘境」となったという他にない。仮想現実に頼らないと体感できない時代に入ったといえる。
次に、そんな北朝鮮の仮想体験を人権侵害の追体験に結びつける尹錫悦政権の方針の激しさが目立つ。
北朝鮮住民をVRで体験するというアイディアはよいものの、もっと他の生活体験は無かったのか。敢えて人権侵害に結びつけることで、金正恩政権の正当性・正統性を否定したい尹政権の「本当の狙い」が透けて見える。
もっとも、筆者もこれまで少なくない脱北者にインタビューした中で痛感したが、例えば日本や韓国でわれわれが享受している自由や生活水準を求める場合、それは北朝鮮の法律で違反となってしまう部分があるのが現実だ。
これを表現するのは簡単ではなかっただろうが、統一教育院にはこれまで蓄積してきた統一教育に対するノウハウがあることを考えると釈然としない部分がある。
実はVRを使った北朝鮮体験プログラムとして、韓国から北朝鮮へと汽車旅行をするものが既に開発され、韓国内のいくつかの施設で利用できる。
あえて人権侵害の追体験プログラムを作ることからは、時の政権に忖度せざるを得ない政府機関の悲しさ(?)も感じた。
最後に、北朝鮮の落ちぶれた経済を強調することで、統一教育が「吸収統一教育」に変わりつつある点を指摘しておきたい。
日本では全くと言ってよいほど知られていないが、韓国政府が過去30年間一貫していて維持してきた統一方案は「和解協力→南北連合→完全統一」の三段階の方法論、すなわち『民族共同体統一方案』(94年制定)である。
これは過去に朝鮮戦争(50〜53年)を通じ互いに殺し合い、その後も対立を続けてきた南北朝鮮が和解し、人的・物的な往来を重ね、互いの住民の合意の下でゆっくりと統一に向かっていこうというものだ。
80年代、韓国は北朝鮮との体制競争で完全に勝利した。南北の経済力の差が開いた上に社会主義陣営が崩壊したことで、同方案が吸収統一という「本音」を和解協力という「建前」で覆った部分があるのは事実だ。とはいえ、過去の保守政権も守ってきた韓国の大原則であることに変わりはない。
しかし尹政権は来年、これを変えることを言明している。こうした点から、統一教育も転換期にあると見るべきだろう。
●生徒の反応は「怖い」、全国への拡大も
筆者は9日と11日の二度、プログラムを開発した統一研究院の担当者に電話取材を行った。
何よりも知りたいのは生徒の反応だったが、まずは物理的な(?)楽しみがあったようだ。「クラスの30人がヘッドセットを付けて授業を行うのは初めてで生徒は興味を示していた」とのことだ。
また、今回のプログラムを通じ「北朝鮮に人権侵害が存在するということを初めて知った」という声も上がったという。
世論調査によると韓国の大人の7割以上は北朝鮮で起きている人権侵害を認識し、これを韓国政府が公論化することに同意しているが、今後は小中学生にもこうした流れが広がっていくだろう。
一方、「プログラムを通じ北朝鮮の社会を最大限リアルに再現しようと努めたせいか、生徒達からは『怖い』という拒否的な反応もあった」という。このために今日11日にソウルで行われている授業では、生徒のより正確な反応をうかがいプログラムを調整するため、開発者も授業に参加しているという。
同院はさらに「プログラムは今後、生徒の反応を見て、韓国各地にある『統一館』を通じて市民へと対象を拡大することも考えられる」とも明かしている。なお、プログラムに参加した全ての生徒を対象に詳細なアンケートが行われている。
●他プログラムとの補完を
以上、最新のテクノロジーを利用した「統一教育」の現場を紹介してきたが、この教育の結果として得られるものは「金正恩政権の施政はダメだ」というものになる他にないだろう。
それは明らかな事実であるが、一方で被害者たる北朝鮮に住む人々に対しても「ダメな人」というレッテルを貼る結果につながらないかも不安になる。北朝鮮との距離感がさらに広がる可能性も高い。
このため、南北関係という、より広い見地からの教育が補完的に行われるべきだろう。(了)