保守思想家はなぜ「溺死」しなければならなかったのか?
保守思想家の西部邁さんが78歳で亡くなりました。発見されたのは多摩川で、河川敷には遺書らしきメモが残されていたといいます。編集者時代に何度かインタビューさせていただいたことがあり、教師としてはきびしい方だったようですが、私のような若輩者の門外漢にはとても丁寧な受けこたえで、腰の低いやさしいひとでした。
しかしここで書きたいのは、西部さんの思想家としての評価ではありません。
オランダ・ユトレヒトで数学教師をしていたウィル・フィサー氏は、65歳のときに左顎骨周辺の扁平上皮がんと診断されます。病気の進行は早く、がんが咽喉部分まで広がり激痛とともに呼吸困難な状態に陥ったとき、彼は「僕が死ぬ日にパーティしよう!」といいます。
パーティには身内14人と友だち12人が集まり、誕生会のような和気あいあいとした雰囲気で、全員がシャンパンを持ちウィルが乾杯の音頭をとりました。その後、病気になってから止めていた大好物の葉巻を1本巻き、火をつけて煙をそっと肺のなかに吸い込むと、「じゃあみんな、僕はこれからベッドに行って死ぬ。最後までパーティを楽しんでくれ。ありがとう」と別れの挨拶を告げました(宮下洋一『安楽死を遂げるまで』小学館)。
驚くような話ですが、オランダではこれは珍しい光景ではありません。
安楽死についての議論がオランダで始まったのは1970年代で、2001年4月には「要請に基づく生命の終焉ならびに自殺幇助法(安楽死法)」が成立、「患者の安楽死要請は自発的」「医師と患者が共にほかの解決策がないという結論に至った」など6つの要件を満たせば、自殺を幇助した医師は送検されないことになりました(それ以前は、いったん送検されたあと、要件を満たせば無罪とされた)。その結果、いまではオランダの全死因の4%が安楽死になっています。
ひるがえって、日本はどうでしょう。
じつは日本でも1976年に日本安楽死協会が設立され、積極的安楽死の法制化を目指しましたが、高名な作家などが「安楽死法制化を阻止する会」を結成して徹底的に批判したため頓挫し、無用な延命治療を中止するリビング・ウィルの普及に趣旨が変わりました。そのため、積極的安楽死を望むひとたちは縊死、墜落死、溺死、轢死などを選択するほかなくなりました。そのなかでも広く行なわれているのが「絶食死」で、日本緩和医療学会の専門家グループによる実態調査では、終末期の患者に点滴や飲食を拒まれた体験をした医師は3割にものぼるといいます。
最近では、「自殺報道は自殺を誘発する」として事件を報じないことも増えてきました。これには一理ありますが、しかしそうすると、この国で「死の自己決定権」を望むひとたちが置かれた理不尽な状況が見えなくなってしまいます。
オランダの数学教師は家族や友人に囲まれた華やかなパーティで人生を終え、日本の高名な思想家はなぜ誰にも看取られず、真冬の多摩川で「溺死」しなければならないのか。
私たちはそろそろ、この問題についてちゃんと議論すべきではないでしょうか。
【追記】オランダでは近年、安楽死の概念が大幅に拡張されており、「死が避けられず、死期が迫っている」状況でなくても、「自殺願望を消す方法はなく、このままではより悲劇的な自殺をするだろう」と複数の専門家(医師・心理学者)が判断した場合は「平穏に自殺する権利」が認められている。
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