パリ銃撃事件の「風刺画だから」に感じるモヤっとしたもの
パリの週刊新聞社『シャルリー・エブド』が銃撃された事件。「言論の自由に対するテロは許されない」といった趣旨の報道が多く出されていますが、どうもモヤっとしたものを感じます。
もちろん、ボクは殺害を肯定しません。犯人たちの行為を認めるわけではありません。
ただ、海外発の報道に多くみられる「シャルリー・エブドの表現は風刺画だから認められるべき」といった意見に、賛成できないのです。
ペンで殴るのは許されるの?
事件後、シャルリー・エブドが“表現”したイスラム教(もしくはその原理主義者)への風刺画をいくつか見ました。ムハンマドが尻を出していました。控えめに言って下品でした。
偶像崇拝を禁止しているイスラム教徒からすれば認められるものではないでしょうし、実際、これまでに殺害予告をされたり火炎瓶が投げ込まれたりといった事件も起きていたようです。
特定の宗教の信者を攻撃する“風刺”が、はたして言論の自由なのでしょうか。
風刺(攻撃)される側はイヤなもの
「シャルリー・エブドはイスラム教だけではなく、キリスト教も含めて宗教や政治家、国際問題など全てを平等に風刺している(だから認めるべき)」と言った意見も目にしました。
「Aを攻撃しているのだからBを攻撃するのも許せ」というのは、攻撃されているBには関係ありません。「殴っているのはお前だけじゃないから」とかどうでもいいので、今すぐ殴るのをやめろ。
Bの立場になって考えると、そんな言葉が出てきます。
人を挑発し続けると反撃される(こともある)
そうした風刺を続けた結果起きた、今回の事件。
言論に対しての銃での反撃。「言論に対しては言論で対抗すべき」だとは思いますが、対抗しても相手に届かない場合、というよりも聞く耳をもたずに挑発し続けてきた場合、攻撃された側は一体どうすれば良いのか?
黙って耐え続けるべきなのか? それとも、その風刺を理解できるようにならなければいけないのか?
暴力はその答えではないのでしょうが、そういった行動を引き起こす可能性は十分に考えられます。「相手も同じ土俵に乗って反撃するべきだ」というのは、攻撃している側が勝手に決めたルールだからです。
攻撃にさらされている側がそれに従う理由はどこにもないでしょう。
彼らはどうすれば良かったのか?
ただ、そこでやはり問題となるのが、今回取られた行為についてです。
暴力も、殺害も、断じて許されるものではありません。しかし、では彼らはどうすれば良かったのか?
自分が大事にしているものへの風刺を認めるべきなのか。やめるように伝えてもやめない場合、どうすれば良いのか。その答えが見つからず、というか見つけられずモヤッとしています。
おそらくこれは、文化の違いなのだろうと思います。フランスの文化ではあの風刺画は認められるべきものであり、ボクが育った文化はアレは表現すべきものではない、と言っています。
個人的には「触らぬ神に祟りなし」がしっくりくるのですが……。