性暴力は非日常のものであるという誤解 防衛省の謝罪について
ロシアの侵攻を受けたウクライナでは、ロシア兵による民間人への性暴力が行われていると報じられている。戦時下では性暴力が相手を服従させ抵抗する気力を奪う「武器」として利用される。
五ノ井里奈さんが訴えた日本の自衛隊の中で起こった性暴力被害について、防衛省は昨日(2022年9月29日)、被害があったことを認めて五ノ井さんに謝罪した。
この事件では強制わいせつで書類送検された男性隊員3人が不起訴となっているが、その後の検察審査会で「不起訴不当」。防衛省の謝罪は当然、現在行われている捜査に影響するはずで、起訴される可能性は高いだろう。
男性隊員は、自分たちの行為が「強制わいせつ」に問われると思っていただろうか。さらに言えば、ウクライナで行われている戦時性暴力と同じ「性暴力」という言葉で表現されるものだと考えたことがあるだろうか。
ないだろうと推測する。
自分たちの行為はあくまで「悪ふざけ」で、女性もその場のノリを楽しんでいたはず。少しやり過ぎた部分はあったかもしれないが、犯罪と言われるほどのことではまったくない。
そう思っていたのではないか。
今週、滋賀医科大生(※)による集団強制性交事件の被告の一人の裁判を傍聴した。弁護側は執行猶予判決を求め、友人ら251人から「寛大な処分を求める」という内容の嘆願書が出ているという。【※訂正】公開時に、誤って滋賀大医学部生と書いていました。お詫びして訂正します(10月2日15時)
これまでも、エリートと言われる男性たちによる集団性暴力事件を何度か傍聴したことがある。
共通するのは、彼らが法廷にいてもなお「自分たちは粗暴で凶悪なレイプ犯とは違う」と思っている様子であることだ。
殴ったり蹴ったり、刃物で脅したりはしていない。飲み会の延長で、女性も酔っていて楽しそうだった。逃げられないように監禁したわけでもないのに、なぜ訴えられるのか。
反省していると言いつつ、彼らは腑に落ちない顔をしている。
おそらく彼らは、「性暴力」は非日常なものであり、自分とは関係がなく、一部の乱暴で自分を制御できない人間が人に見られない場所で陰湿に行うものだと思ってきた。自分が仲間と一緒に楽しく行った「悪ふざけ」が、「性暴力」あるいは「性犯罪」と表現されることが理解できていない。
同じように性暴力を非日常だと思っている人が彼らのストーリーを聞けば「悪気はなかったんだね、かわいそうに」と思ってしまう。確かにそれは自分の理解しているレイプの定義とは違うと。
ちょっと羽目を外してしまっただけだから、許してやってほしい。彼らには将来があるのだから。そんな言葉によってないことにされてきた被害はこれまでどれだけあるだろう。
この認識の差を埋めていくためには、権力勾配やヒエラルキーがある中で行われるハラスメントや暴力の構造を理解するための教育が必要だ。当然そこには、現代の社会における男女のパワーバランスの不均衡も含まれる。
また、一件の謝罪の背後には、表に出なかった無数の被害がある。防衛省の謝罪を見て「自分は謝罪をしてもらえなかった」と感じている人は必ずいる。
性犯罪と認められる被害は、性暴力の中のほんの一部である。社会の中で、性犯罪と認められなかった被害当事者の傷を受け止め、共有し、ケアしていくための仕組みが必要だ。
付け足しとなるが、男性隊員たちがもし今後、強制わいせつ罪で起訴され、裁判にかけられることとなったとしても、強制わいせつの初犯の場合、執行猶予判決となることがほとんどである。
刑罰の重さがそのまま再犯防止や更生につながるとは思わないし、量刑を重くするだけの「厳罰化」には懐疑的だ。しかし、性暴力は「ただの悪ふざけ」と軽んじられてきた過去がある。加害者たちは、その社会的刷り込みをもっとも内面化している。刑罰の軽さが、その思い込みを「支援」することになるのではないかとは危惧している。