二・二六事件で高橋是清が暗殺された理由
これを書いている2月14日も関東地方では雪が降っている。2月8日の大雪に続いて今回もかなりの積雪が予想されているそうである。2月8日の積雪は東京の都心で27センチと45年ぶりの記録だった。そのときのことはうっすらと記憶に残っている。当時、私はまだ小学生で横浜のアパートに住んでいた。そのアパートの屋上で積もった雪に30センチの物差しを垂直に差したところ、完全に見えなくなったことを覚えている。
それはさておき、先日の2月8日の大雪で仙台では積雪が35センチに達し、昭和11年以来、78年ぶりの大雪となった。昭和11年は西暦で1936年、この年の2月は東京も何度か大雪に見舞われたそうである。その雪のなか2月26日に起きたのが二・二六事件であった。この軍部によるクーデター事件で当時蔵相であった高橋是清も暗殺された。何故、暗殺の対象に高橋是清が含まれていたのであろうか。
高橋是清は日銀副総裁当時、日露戦争の戦費調達を成功させ、その後、日銀総裁、蔵相、さらには首相にまでなった人物である。1931年12月に再び蔵相となった高橋是清が、金輸出禁止による円安放置政策、日銀引受による国債発行と財政支出の拡大、低金利政策を柱に打ち出した政策が、高橋財政である。
高橋財政により国内景気は急速に回復し、1932年から1935年にかけての実質経済成長率は年率7%程度と高い水準で推移した。銀行の貸し出しも伸び、1935年下期から銀行貸し出しが増加に転じた。銀行による国債の買い余力が減少してきたことで、日銀が引き受けた国債の民間への売却比率は1935年上期が9割程度あったのに対し、下期には5割前後に低下した。1933年から1935年半ばにかけてほぼ横ばいで推移していた卸売物価指数は、1935年の夏あたりから再び上昇してきた。
放漫財政とも呼ばれた拡大財政について高橋是清は、比較的短期間のうちに歳出規模は再び収縮し、景気回復に伴う税収増と相まって財政収支は均衡を回復するとの認識でいたようだが、これはやや楽観的すぎた。1934年度の予算編成のころとなると、さすがに高橋是清も財政膨張の抑制、国債増額の是正に取り組みはじめた。
1932年以降の政府支出の拡大要因は軍事費の拡大が主要因となったことで、財政政策の転換は簡単にはいかなかった。1935年に高橋蔵相は軍備拡張を強引に要求する軍部と対立する。高橋財政のリスクとしては、財政拡大の主因が軍事費であったことに加え、日銀による国債引受があった。打ち出の小槌を与えてしまったのである。
高橋蔵相は経常収入の増加分だけ公債を減額すると言う方針で1936年度の予算編成に臨む。ところが1936年度予算を巡り軍部と大蔵省が衝突した。この予算案では歳出の5割弱が陸・海軍省の経費となっていたが、陸・海軍省はさらなる要求をしていたことで、不満は大きくなっていった。さらに歳出の3割程度は国債発行で賄われることになる。
高橋蔵相は「ただ国防のみに専念して悪性インフレを引き起こし、財政上の信用を破壊するごときがあっては、国防も決して安固とはなりえない」と主張した。しかし、大陸進出を狙う軍部としては軍事費削減につながる国債の減額は到底受け入れられず、これにより軍部の反発を招いた結果、高橋蔵相は二・二六事件で標的にされてしまったのである。