天敵から恩人へ…たかじんさんとの歴史
恒例の年末年始ハワイ取材から帰国した早々、「やしきたかじんさん死去」という悲報が飛び込んできた。
いろんな方々から電話やメールをいただいたが、ボクは信じられなかった。8日から、たかじんさんは新妻とハワイに静養に行く予定になっており、チケットも購入済みだったからだ。
それだけではない。この静養に備えて、たかじんさんは大好きなカルフォルニアワインを大量に注文。米国本土にしか売っていない葉巻も取り寄せていた。この行動は体調が回復していたことを裏付けるもので、ハワイ静養後、タイミングを見て復帰するという青写真だったことを意味している。
それだけに、ボクはどうしても、たかじんさんが亡くなったという事実を受け入れられなかった。
番組でマジで大げんか
ボクがたかじんさんと初めて会ったのは、20年ほど前。日本テレビ系「たかじんnoばぁ~」に出演した際、マジで大げんか。収録は大阪だったため、ボクは最終の新幹線に乗り遅れるほど、モメにモメた。ボクの中では、2度と共演することがない芸能人No.1とも思える存在だった。
その後、ある事情から、ボクは東京キー局での仕事がなくなり、1年間、ほとんどテレビに出演することがなかった。1年後、朝日放送「おはよう朝日です」に声をかけてもらい、司会者だった宮根誠司さん(当時は局アナ)と、毎週のように飲みに行くようになった。
約17年前の夏、宮根さんと飲みに行っていた大阪・北新地のクラブで偶然、たかじんさんと再会。「お前ら、えらい仲いいらしいな。毎週、一緒に飲んでるって評判だぞ」。すでに酔っ払っていたたかじんさんは、自分の席にボクらを呼んで、高級ワインを注いでくれた。「公造、頑張れよな!東京で仕事がなくなって大阪に来たらしいけど、大阪なめたらあかんぞ。大阪でトップになって、東京のヤツらを見返してやれ!」。
あまりの緊張に、その晩に何があったか記憶に残っていないが、その2週間後にたかじんさんの番組に呼んでもらった。
以来、プライベートでも付き合ってもらい、お酒の飲み方、女性の接し方、ハワイの過ごし方、お好み焼きの焼き方、てっちりの作り方…、いろんなことを教えてもらった。
中でも、「視聴者の目線を忘れるな!」と口グセのように言われ、何度も叱られた。 怒るのではなく、叱る。いつも背後に愛情があった。
「『○○と思います』ではなく、『○○です』と言え」とも教えられた。「断定できない情報に視聴者は共感しない!断定できないのは、公造の取材が足りないから」。
これは、いまでもボクがテレビでしゃべる時に一番大切にしている部分だ。
突然、「誕生日おめでとう!」
一番忘れられないのは6年前、12月30日のハワイの夜の出来事。突然、たかじんさんから「公造、いまどこだ?ウチに飲みに来いよ」と電話があった。コンドミニアムを訪ねると、ボクも知っている現地の友人と飲んでいた。大好きなワイン「オーパスワン」を飲んで上機嫌だったたかじんさんは、部屋に常設しているステージに上がり、ギターを持って歌いだした。『やっぱ好きやねん』、『あんた』、『ICHIZU』、『東京』…。
しばらく歌った後、「あ、そうやったな。公造、誕生日おめでとう!」。まさか、こんなボクの誕生日を覚えていてくれたなんて…。こんなに感動した誕生日は、未だ記憶がない。
最後にたかじんさんに会ったのは、昨年5月の読売テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」の収録。少し疲れている感じはしたが、トークは絶好調。まさか、その2週間後から、再休養に入るとは思いもしなかった。
これだけお世話になったのに、まだお好み焼きだってうまく焼けないボクです。だから、お別れの言葉は言いません。これからも、指導してください。見守ってください。
ありがとうございました。