あさが作った生命保険会社
17世紀にハレー彗星の周期を計算したイギリスの天文学者エドモンド・ハレーは、年齢ごとに生存している人、死亡した人の割合をまとめ、人間の寿命を統計化した「生命表」を作成した。
18世紀イギリスのロンドンで、生命表を元にした死亡率に基づいて保険料を集める生命保険会社が設立され、これが今の生命保険会社の起源となっている。
日本の生命保険会社の始まりは、福澤諭吉の著書「西洋旅案内」で欧州の近代的な保険制度が紹介されたのがきっかけとされる。この附録において、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(損害保険)の3種の災難請合について説明がある。
福澤諭吉に関わりのある早矢仕有的という人物が、横浜に丸屋商社を創業した。丸屋商社は創業の翌年に東京日本橋に店を開設したが、これが現在の丸善となる。明治7年に「丸屋商社」は社員の福利厚生のために「死亡請合規則」というものを定めた。
この「死亡請合規則」によると、従業員は在職中に一定の金額を積み立てし、万一死亡した場合には、相応の金額を残された家族に給付する。その考え方は後に阿部泰蔵(元丸善役員)によって設立された明治生命(現在の明治安田生命)に継承された(丸善のサイトを参照)。
福澤諭吉門下でもあった阿部泰蔵によって、1881年にわが国最初の近代的生命保険会社である明治生命が設立された。その後、帝国生命(現在の朝日生命)、日本生命が設立されたのである。
明治生命、帝国生命、日本生命の3社の業績が順調に伸びたことで、各地で多くの生命保険が設立された。そのひとつに浄土真宗の門徒を対象にした真宗生命があった。しかし、経営に失敗し、門徒総代格であった広岡家が再建を託されたのである。真宗生命は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称されたが、なかなか経営はうまくいかなかった。
広岡浅子は経営不振を脱するため、この朝日生命と北海生命、護国生命と合併する構想を描き、その結果、1902年に誕生したのが大同生命である。社名は「小異を捨てて大同につく」という故事にのっとって選ばれたそうである。