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「残業代ゼロ法案」に反対するほんとうの理由

橘玲作家

政府の産業競争力会議が提言する労働時間規制の緩和をリベラルなメディアは「残業代ゼロ法案」と呼んで批判しています。労働規制緩和の「残業代を支払わない契約を認める」という面だけを強調しているのですが、はたしてこれは公正な報道でしょうか。

日本的な雇用慣行は製造業をベースにつくられたものです。工場では労働者が働いた時間だけ製品がつくられますから、残業代が払われないのは無料奉仕、すなわち奴隷労働になってしまいます。

ところが産業が高度化してサービス業や知識産業が主流になると、工場と同じような労働管理ではうまくいかなくなります。

知識社会においては、働き方は大きく3つに分かれます。(1)クリエイティブクラス、(2)スペシャリスト(専門家)、(3)バックオフィスです。

バックオフィスというのは縁の下のちからもちで、いわゆる事務仕事です。こうした仕事は時給計算が可能で、残業すれば収入が増え、欠勤すれば給料から差し引かれます。飲食店などと同じ給与体系なので、“マックジョブ”とも呼ばれます。

クリエイティブクラスとスペシャリストの違いは、映画スターと舞台の役者にたとえるとわかりやすいでしょう。

どれほど人気の演劇やミュージカルでも、公演の回数や劇場の規模、チケットの料金には自ずと上限があります。弁護士や公認会計士、医師などの専門職も同じで、時給は高くてもクライアントの数や仕事の量には物理的な制約があります。

それに対して映画スターは、いったんヒット作に主演すると、映画やテレビ放映、DVDなどで世界じゅうに作品が拡散していき、何十億、何百億と稼ぐことも珍しくありません。テクノロジーの進歩によって、クリエイティブクラスの富には上限がなくなったのです。

もちろんこれは、クリエイティブクラスの方が有利だ、ということではありません。世界的な大スターになれる確率はきわめてわずかで、ほとんどの挑戦者は脱落していきます。それに対してスペシャリストは、無限の富は手にできないかもしれませんが、高い確率で平均以上の収入を得ることができます。

知識社会化が進むなかで、クリエイティブクラスは真っ先に会社を辞めて独立していきました。日本の会社はいま、社内のスペシャリストをどう処遇するかで悩んでいます。

「残業代ゼロ」の例として為替ディーラーが挙げられていますが、彼らの仕事の実態は会社の庇を借りた自営業者と変わりません。成果報酬で社長以上の給与を受け取ることもあるのですから、残業代ゼロはもちろん、大損すれば退職金ゼロで解雇されるのが当たり前です。

法務や経理などのスペシャリストは、資格などによって人材としての価値が労働市場で客観的に評価されるようになるでしょう。そうなれば、会社の処遇に不満なら転職や独立すればいいだけですから、政府が労働規制で保護する必要はありません。それに対してバックオフィスの仕事は景気に左右され、転職も簡単ではないので、どこの国でも一定の保護が必要とされています。

日本の会社では、いまだにバックオフィスとスペシャリストが混在し、同じ給与体系で社員全員を管理しようと四苦八苦しています。労働規制緩和というのはそれを実態に合わせることなのですが、大半のサラリーマンにとって、自分の仕事がマックジョブだという現実を突きつけるような“改革”はとうてい受け入れられないのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2014年6月23日発売号

禁・無断転載

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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