【土浦市】今昔さんぽ①かつての駅舎は軍艦型だった!?約130年の間に土浦駅はどう変わったかを振り返る
5回目の「ハッケン!土浦まち歩き」は、城下町シリーズの締めくくりとして土浦駅から桜町界隈を歩きます。水運を中心に発展した土浦は、鉄道の登場で町の風景が大きく変わっていきます。今回のまち歩きでは、昔の土浦と今の土浦を重ねて、写真や資料で振り返っていきます。
間口約10メートルの小さな駅舎が5階建ての巨大ビルに
土浦駅や桜町周辺の今昔をナビゲートしてくれるのは、土浦市立博物館の学芸員・野田礼子さん。土浦市で生まれ育った生粋の地元っ子です。
野田さんとの待ち合わせ場所は、土浦駅ビル。「PLAY atre TSUCHIURA(プレイアトレ土浦)」の1階の入口前です。
土浦駅が誕生したのは今から約130年前、明治28年(1895)にまで遡ります。待ち合わせ場所は、開業当時の駅舎の入口あたりと推測される場所。城下町の賑わいから離れた埋め立て地に建てられました。残念ながら開業当初の写真はありませんが、間口は6間(約10.92メートル)、奥行3間(約5.46メートル)の小舎でした。
上の写真は、野田さん所有の資料で、昭和58年(1983)に新駅舎の落成記念で水戸鉄道管理局から販売された入場券です。写真は大正5年(1916)の土浦駅舎と小さい枠の中は乗降風景。駅舎は中央に待合室、右側に小荷物室、左側に出札室を配した駅舎に改装されています。
上の写真の駅舎は昭和11年(1936)に完成しました。中央の時計塔の左右に伸びる屋根が、下り方面に向かう軍艦のような形をしています。
これは「艦型」と呼ばれる造りで、駅舎が完成した当時、土浦が「海軍の町」といわれていたことにも由来しているそうです。
「土浦駅新駅舎落成記念入場券」(3枚セット)が販売されたのは、昭和58年2月17日のこと。土浦駅が「駅ビル」として開業されたことを記念した入場券でした。駅ビルの名称は「W・I・N・G(ウイング)」。平屋建てからスタートした土浦駅は昭和11年に2階建てへと規模を拡大し、さらに商業施設を併設した5階建ての駅ビルへと変身しました。
乗降人員は、大正13年度に2789人/日だった小さな土浦駅が、昭和56年には4万1128人/日が乗降する茨城を代表する大きな駅に。
「W・I・N・G(ウイング)」は、平成20年(2008)に営業を終了しますが、建物はそのままに翌年から「ペルチ土浦」が開業。それから約10年後の平成30年(2018)に「プレイアトレ土浦」となり、翌年にグランドオープンを果たし、同年に星野リゾート「BEB5土浦」も開業しました。
時代の流れ、駅の発展とともに変化した駅前周辺
野田さん「明治の半ばごろに、土浦に線路が開通されたのに伴って、沼地だったところが徐々に埋め立てられていきました。この写真は大正10年頃の土浦駅前付近。現在の桜町二丁目・三丁目あたりは一面の水田ですが、大正12年から15年にかけて大規模な区画整理が行われて、新市街地の造成が完成したそうです」
上の地図は、昭和2年(1927)に調査して制作された、土浦駅前の案内図です。駅前に建物が密集している様子が町の賑わいを表しているようです。
上の写真は昭和24年(1949)頃の土浦駅前を撮影したもの。昭和2年の地図で密集していた建物はなくなり、すっきりとしています。
これは、戦争中の空襲から運輸施設を守ることを目的に、駅から50メートル以内の建物が強制疎開によって取り払われたため。
昭和24年には駅前に噴水池が造成され、周辺には樹木も植えられた公園風の駅前広場へと変貌を遂げます。
昭和58年の駅ビル完成後に、駅前広場も一新。現在は土浦市役所と駅ビルを結ぶペデストリアンデッキが設けられ、おしゃれで便利な駅前空間に。
冬にはイルミネーションが点灯して、幻想的な雰囲気も楽しめます。