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藤子不二雄Aさんが死去 時代の証言者たる、そのジャーナリスティックな視点

加山竜司漫画ジャーナリスト
『ぶきみな5週間』(中央公論社)と『ビッグ作家究極の短編集』(小学館)

7日、マンガ家の藤子不二雄A(安孫子素雄)氏が川崎市内の自宅で亡くなったことが発表された。享年は88歳であった。

代表作には『怪物くん』や『忍者ハットリくん』、『プロゴルファー猿』といった子供向け作品があるほか、『笑ゥせぇるすまん』や青年誌に掲載した大人向けの短編(『マグリットの石』『水中花』など)も多数ある。

もともと安孫子氏は、富山県立高岡高校を卒業後、富山新聞社に入社した経歴を持つ。電信技術がまだ発達していない当時、新聞の社会面では人物写真のかわりに似顔絵イラストを掲載することもあり、安孫子氏は在職中に吉田茂首相(「富山新聞」1952年12月31日付)や高辻武邦富山県知事(「富山新聞」1953年2月11日付)などの似顔絵を執筆した。

のちに藤本弘氏(藤子・F・不二雄)に誘われ、富山新聞社を退社してマンガ家を志して上京するが、新聞社で培われたジャーナリスティックな視点は、1968(昭和43)年に『黒イせぇるすまん』を描いたのを皮切りに、翌年以降にも『ひっとらぁ伯父さん』や『B・Jブルース』(いずれも小学館「ビッグコミック」掲載)など、大人向けのブラックユーモア作品を描くようになってから、より顕著になっていった。

たとえばベトナム戦争中にソンミ村虐殺事件が起きた際には『シンジュク村大虐殺』(少年画報社「ヤングコミック」)、タイで一夫多妻をした日本人男性が永久追放処分を受けると『ハレムのやさしい王様』(実業之日本社「週刊漫画サンデー」)と時事性の強い作品群をものしているのも、ジャーナリスティックな視点があればこそだ。

安孫子氏は1987年に藤本氏とのコンビを解消し、ふたりの共同ペンネームであった「藤子不二雄」からそれぞれ単独の「藤子不二雄A」と「藤子・F・不二雄」となるが、このコンビ解消の理由を以下のように語っている。

 藤本君はああいう生活ギャグをずっと描いてたけど、僕は傾向が変わってきた。自分で変わったなと思ったのは、『魔太郎が来る!!』っていう作品を描いたとき。あとブラックユーモアの短編を描いたっていうのも転機になってる。単行本に出せないようなものも描いていて、『新宿村大虐殺』(※原文ママ)っていうドキュメンタリー形式の、まったく関係のない人たち6人が、新宿のコマ劇場前の乱射撃で死んでくっていう過激な話も描いたりしてたんです。(中略)僕がえらい過激なものを描こうと思っても、『ドラえもん』を傷つけるといけないから。で、ふたりでずっとやってきて、やることはやり尽くした、50まで漫画家やるとは思ってなかったから、あとはお互い好きなように、気楽にやろうよ、というのがだいたいの別れた理由でね。

(『別冊宝島四〇九号[ザ・マンガ家]』宝島社)

安孫子氏の「資料を残す」「時代の証言者たる」といった精神性は、半自伝的作品の『まんが道』、その続編『愛…しりそめし頃に…』でもいかんなく発揮された。昭和20~30年代の生活ディテールが丹念に描きこまれているため、当時の風俗を知ることができる。また、トキワ荘時代に記していた日記も、マンガ史研究において資料的な価値が高い。

ヒット作家としてだけでなく、ストーリーマンガに時事性を持ち込み、マンガの可能性の拡張にも貢献した点は、今後さらに再評価されていくだろう。

漫画ジャーナリスト

1976年生まれ。フリーライターとして、漫画をはじめとするエンターテインメント系の記事を多数執筆。「このマンガがすごい!」(宝島社)のオトコ編など、漫画家へのインタビューを数多く担当。『「この世界の片隅に」こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと』(文藝春秋)執筆・編集。後藤邑子著『私は元気です 病める時も健やかなる時も腐る時もイキる時も泣いた時も病める時も。』(文藝春秋)構成。 シナリオライターとして『RANBU 三国志乱舞』(スクウェア・エニックス)ゲームシナリオおよび登場武将の設定担当。

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