金沢競馬場に能登半島地震の救助部隊が集結 災害支援と競馬の深いつながり
このたびの令和6年能登半島地震により被害を受けられた皆さまに対しまして、心よりお見舞い申し上げますと共に、皆さまの安全と被災地の一日も早い復興を心からお祈り申し上げます。
金沢競馬場が石川県の救助隊の拠点に
1日、消防庁から複数の都道府県に緊急消防援助隊の応援要請があり、金沢競馬場は石川県の進出拠点に指定された。翌2日、金沢競馬場の駐車場には他府県からの緊急車両が集まっていた。車の塗装やナンバープレートから、これらが大阪、名古屋、奈良、群馬、静岡などから集結しているのがわかる。
日本の競馬は戦後、軍馬育成から災害復興支援へ変化
災害と競馬は、実は深いつながりがある。
大正13年に制定された旧競馬法は軍馬育成の位置づけだったが、第二次世界大戦後、新たに成功された競馬法において、競馬は戦災復興事業の財源としての行われるようになり、現在に至る。
競馬法第1章総則第1条の2、2に、競馬を行うことができる市町村は
一 著しく災害を受けた市町村
二 その区域内に地方競馬場が存在する市町村
とあるが、ここからも災害復興事業の趣旨が伺える。
避難場所の連携、復興財源を目的とした復興支援競走も
こうして戦災復興に貢献した競馬は、その後は自然災害の復興へ寄与していく。
競馬場は広いし、たくさんの人数が収容できる。今回、金沢競馬場が支援車両の進出拠点に選ばれた。敷地は広大で所有者は石川県と金沢市である。今回の進出拠点は当初は違う場所が設定されていたようだが、のちに金沢競馬場に変更されていた。
また、中央競馬の競馬場は宿舎に普段は出張者が寝泊まりするための個室が多数備わっている。1995年、阪神淡路大震災の際、JRA阪神競馬場は厩舎を宿泊施設として開放し近隣住民約500名を受け入れた。駐車場を含めた敷地は広いし平坦な場所が多い。よって、競馬場は災害発生時の避難場所に指定されているケースが多く、たとえば中山競馬場は船橋市の想定最大307083人(屋外)が収容できる広域避難所とされている。
また、売上金等を被災地の復興財源に充てることを目的とした復興支援競走も行われている。大規模災害に遭われた地域の復興を支援するため、売上金などの一部を被災地の復興財源に充てることを目的とした競走だ。
1995年、阪神淡路大震災の影響でJRA阪神競馬場は大きく被災し、本馬場に亀裂が入るなど約140億円の損害を受けた。前述どおり、被災者の避難場所として機能する一方で、そのような状況下での競馬開催はできないと判断され、急遽、阪神開催分は他場に変更が決定。本来なら阪神競馬場で行われるはずの宝塚記念は京都競馬場で行われた。そして、被災地支援として宝塚記念を含む同日の全レースを「震災復興支援競走」とされ、その売上の一部は復興金として兵庫県、神戸市、宝塚市などに贈られたのだった。
被災したオーナーが優勝した復興支援競走
1995年12月、阪神競馬場は無事復興し競馬開催が再開した。翌1996年、無事復興した阪神競馬場で行われた宝塚記念も「震災復興支援競走」として行われたが、このレースを制したのはマヤノトップガンだった。そして、同馬のオーナーである田所祐氏は自身も被災者であり、経営していた病院が損害を受け、親族を亡くしていた。病院の再建と地元の被災患者の治療に日々奔走していた田所オーナーが震災復興支援競走を勝った。
被災者でもある地元オーナーの復興競馬での優勝劇。マヤノトップガンの"マヤノ"は神戸の摩耶山が由来で、地元をこよなく愛するオーナーだった。
■1996年宝塚記念(GI) 優勝馬 マヤノトップガン
▼競馬場と防災協定を結ぶ地方自治体についての記事。東日本大震災ではピーク時で約550人が避難した。
▼JRAはこれまで被災された地域へ度々あらゆるかたちで支援を実施している
なお、金沢競馬で予定されていた馬券の場外発売、及び払戻しは2日から5日まで中止された。6日以降は後日判断される。
少しでも早く被災地の皆様が平穏な日常を取り戻すことを願い、競馬場が単なる娯楽施設として楽しめる日々が戻るよう、祈ります。