【加東市】半世紀以上こいのぼりを作り続ける職人がいた
間もなく迎える端午の節句。
もともと日本では将軍に男の子が生まれると、旗指物といわれる家紋のついた旗やのぼりを立てて祝う風習がありました。
そして江戸時代に入り、武家が五色の吹き流しを揚げたのに対し、町人らがこいのぼりを揚げるようになったのが始まりといわれています。(※諸説あり)
今回、加東市の特産品でもあるこいのぼりを長く作り続ける職人にお話を伺いました。
柴崎物産代表・柴崎さんへインタビューを実施
加東市大畑に工房を構える柴崎物産株式会社の柴崎彰孝(あきたか)さんへインタビューした模様を紹介します。
「時代と共に変化を遂げてきたこいのぼり作り」
ーー柴崎さんがこいのぼり作りを始めたのはいつからでしょうか。
私がこいのぼりを作り始めたのは、昭和45年頃からだったと記憶しています。ですから、もう50年以上になります。
ーー半世紀以上とは本当にすごいことですね。ではどうして加東市でこいのぼりを?
もともと私の祖父が、こいのぼりの製造方法を大阪・堺から持ち帰ったことが始まりだといわれています。
それが明治30年(1897)頃の話で、祖父の代では和紙に筆で一匹ずつ描き上げていました。
そのあと、父親の代になってからは時代の変化に伴い「シルク印刷」という製法に変わっていきましたね。
「こいのぼりが加東市の特産品となるまで」
ーー大きなこいのぼりを筆で描くことは、本当に絵が上手でないと成せない職人技ですね。
東条地域が男児の節句を祝うための「のぼり絵旗」の生産地であったため、複雑な絵柄を描ける職人が多くいたのだとか。
それが、当時こいのぼり作りが盛んになっていた理由のひとつでしょうね。
ーーなるほど。普段、こいのぼりは柴崎さんがお一人で作っているのですか?
いくつもの染料を生地に乗せ、鯉を描くのが私の役目です。
それらをカット後、縫い合わせるなどの作業がありますが、それは私の家族に任せています。
ーー職人さんたちの手を経て、美しいこいのぼりができるわけですね。
またこいのぼりのほか、神社ののぼりも製作することがあります。今だと吉馬厄除八幡宮(同市)で揚げられるのぼりを作っていますよ。
「播州鯉は加東市を飛び出し、東京へ」
ーーでは改めて、加東市産のこいのぼりについて、もっと詳しく教えていただけますか。
「播州鯉(ばんしゅうごい)」と呼ばれる加東市のこいのぼりは、質が良く豪華で写実的(※事実をありのままうつし出そうとする傾向のあるさま)といわれます。
またウロコが尾に向かって小さくなるものもありますが、「播州鯉」は同じ大きさという点も特徴ですね。
ーー(工房に並ぶ無数のこいのぼりを見て)このたくさんのこいのぼりはどこで使われるのですか?
これらは『東京スカイツリータウン(R)こいのぼりフェスティバル2024』というイベント用のこいのぼりです。
期間中はこのこいのぼりが「兵庫県加東市」の名入りで、スカイツリー周辺に掲揚されます。
「市民なら必ずと言っていいほど目にする、柴崎さんのこいのぼり」
ーー東京の空を「播州鯉」が泳ぐなんて、とても素敵ですね。また市内でもこのサイズのミニこいのぼりをよくお見かけします。
東条湖おもちゃ王国では、子どもたちに夢やイラストなどを自由に書いてもらうイベントありまして。
なお今年も1,000匹のこいのぼりが、園内あちこちで見られますよ(注※展示期間は5月31日まで)。
また河高のにぎわいプラザ内でも毎年、新一年生がこいのぼりに夢を書いたものが展示されています。
ーー筆者の子も、小学校入学時に楽しそうに書いていたことを思い出します……。あのこいのぼりも、柴崎さんが作られたものだったんですね!
たくさんの子どもたちの夢がきれいに空を泳ぐよう、いつも気持ちを込めて作っています。そうして、これからも長く続けていきたいですね。
加東市のこいのぼりは、夢を乗せて今年も泳ぐ
こいのぼりには”人生という流れの中で遭遇する難関を鯉のように突破して立身出世して欲しい”と願う意味があるといわれています。
今の時代、昔のように家の庭に大きなこいのぼりが立つのを見る機会が減っている現状。
しかしながら、柴崎さんが生み出すたくさんのこいのぼりはこれからも子どもたちの夢・家族の願いを乗せて、加東市の空を鮮やかに彩るのでしょう。
柴崎物産株式会社
公式サイトはこちら
所在地:兵庫県加東市大畑 1391
TEL:0795-46-0136
FAX:0795-46-1220