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始まりは「ガスボンベと竹ぼうき」 常呂町で生まれ、受け継がれたカーリングの夢

川端康生フリーライター
(写真:松尾/アフロスポーツ)

 カーリング女子日本代表が北京五輪で銀メダルを獲得した。

 メンバー5人のうち吉田夕梨花、鈴木夕湖、吉田知那美の出身地、常呂(ところ)町が「カーリングの町」であることはいまや誰もが知っているだろう。

 2006年に合併して北見市の一部となったが、人口5000人に満たないオホーツク沿岸の漁業と農業の小さな町である。

 そんな町で「カーリングの夢」が生まれたのは――。

夢の始まり

 夢の始まりがどこであったかを特定するのは難しい。しかし、どこかで誰かが夢の灯を燈さなければ、何かが始まることは決してない。

 常呂町とカーリングの出会いは1980年(昭和55年)だった。

 北海道とアルバータ州(カナダ)の姉妹提携イベントで、「カーリングという競技」を初めて知った酒屋さんの店主が、屋外のスケートリンクの片隅で見よう見まねで始めたのだ。

 もちろん道具はない。だからビールのミニ樽やプロパンガスのボンベにコンクリートを詰め込んだ手作りストーンを投げ、ブラシは竹ぼうきで代用した。

 すごいのはこの酒屋さんの熱意と行動力である。

 手作りストーンでのプレーの翌月には協会を設立。このとき北海道カーリング協会も、日本カーリング協会もまだ存在しない。日本で最初のカーリング協会だった。

 それどころか翌年にはNHK杯カーリング大会まで開催してしまうのだ。大会は常呂町とNHK北見放送局の共催(だったと思われる)。告知チラシは手書き。

 それでも1981年2月25・26日に開催されたこの第1回大会には14チームが参加しているから、競技が急速に広まっていたことがわかる。

 ちなみに大会は町民スケート場に隣接してカーリング用のシート(レーン)を2面設置して行ったが、その製氷作業を担ったのも常呂カーリング協会だった。

 初代会長はもちろん酒屋さん。小栗祐治氏(故人)という。夢を最初に燈した人である。

 小栗さんのすごいのは自らが虜になったカーリングを、町民に広める「普及」だけでなく、早い段階から「強化」にも取り組んだことだ。

 NHK杯を実現した同じ頃には、すでに「指導者講習会」も開催。まだ競技としての知名度も存在感もなく、もちろん五輪競技でもなかった当時から「小さな常呂町から世界で活躍する選手を」という視点を持っていたのである。

 だから、レクレーションに留まらず、技術の向上のために子供たちを勧誘し、ジュニア世代から指導して、競技者の育成にも励んだ。

カーリングホール誕生、そして五輪種目に

 転機となったのは1989年(平成元年)の「はまなす国体」だろう。これを機に「常呂町カーリングホール」が誕生したのだ。日本初、いやアジア初の屋内専用リンクだった。

 もちろん常呂町が国体の会場に選ばれたのは、カーリングがすでに盛んだったからに他ならない。

 たとえば町開基100周年事業(1983年)では4シートの屋外リンクが新設されている。この頃には老若男女を問わずチームが誕生し、町民たちによるリーグ戦が常呂町では行われていたのである。

 NHK杯も道内から80チームが参加する一大イベントになっていた。常呂町は日本における「カーリングのメッカ」となっていたのである。

 そして1998年、カーリングが五輪競技になる。その最初の大会、長野五輪には常呂町から5人の選手が出場した。人口5000人の町から、である。

 しかし考えてみれば当然かもしれない。すでに80年代から選手を育て、強化に取り組んできた。カーリングホールができてからは技術の向上にさらに拍車がかかっていた。

 90年代に入ってからは小学校の体育の授業にカーリングが取り入れられ、それは中学、高校にも広げられた。

 何より、町内のリーグに40チームも参加するカーリングの町なのだ。

「常呂から世界へ」が「常呂からオリンピックへ」。夢の灯火が共有されないはずはない。

 そして、長野、ソルトレイク、トリノ、バンクーバー、ソチと五輪選手を輩出し続け、「常呂からメダリストを」とさらに大きくなった夢もまた、平昌で銅メダル、北京で銀メダルと実現したのである。

常呂町のカーリングホールに展示されている草創期の道具(著者撮影)
常呂町のカーリングホールに展示されている草創期の道具(著者撮影)

受け継がれた夢

 夢の灯を誰かが燈さなければ何かが始まることは決してない、と書き出して常呂町とカーリングの歩みを駆け足で辿った。

 ここで終わってもいいのかもしれないが、もう少し続けたてみたい。42年前に小栗さんが燈した夢を、受け継いだ誰かがいたからこそ、この物語は結実したと思うからだ。

 たとえば本橋麻里はカーリングが正式種目となった長野五輪の頃、まだ12歳だった。その頃、小栗さんに誘われてカーリングを始め、そして平昌五輪で銅メダルを獲得した。

 いわば常呂町における第2世代。小栗さんから手渡されたバトンを握り締めて、本橋たちはメダリストになった。

 その本橋が「ロコ・ソラーレ(LS北見)」を立ち上げたのは2010年だ。カーリングが五輪競技となり、認知され、それどころか人気種目になり、本州にもチームができ……。カーリングを巡る環境が激変した頃だ。

 常呂町はすでに北見市の一部になっていた。北見市は中心部にイオンモールや家電量販店も並ぶ道東の中核都市だ。人口は約12万人。ホタテ漁とタマネギなどの農業が主産業の常呂町と比べれば大都市と言っていい。

 しかしだからと言って、生活も練習環境も待遇も、とても本州のチームに太刀打ちできる経済圏ではない。

 それでも(もしかしたら「だからこそ」)本橋は新たなチームを立ち上げ、拠点を常呂町に置いた。

 そんな決断に感じるのは、故郷への思いと先人たちから受け継いだ夢のバトンの重みである。彼女は「常呂っ子」なのである。

 だから、これは「郷土の物語」でもあるのだと思う。

郷土の物語

 改めて、常呂町とカーリングを郷土の物語として辿り直すなら、たとえばこんな――

 湧網線が廃線になり、常呂駅も廃駅になったのは1987年だった。カーリングホールができる前年のことである。

 北海道の人にとって鉄道への思いは本州のそれとは質が異なる。「鉄道の開通と駅の開設」に相当な時間と労力(政治的な陳情も含めて)を費やしているからだ。

 その意味で「廃線と廃駅」への思いもまた特別だ。苦労して実現した喜びがあるからこそ、いとも簡単に切り捨てられた寂しさもまた一入(ひとしお)なのである。

 もちろん廃線は地域の凋落を実感する出来事でもある。

 だからこそ、鉄道を失った同じ時期に誕生したカーリングホールは常呂の人々にとって特別なものだった。それも日本のどこにもない、ここにしかない立派な施設だ。町の誇りであり、希望の象徴でもあったかもしれない。

 当然カーリング熱は一層高まった。うまくなりたい欲求が生まれ、うまくなった人が子供を教え、強い選手を育てようという機運もより強くなった。

 そして10年後、カーリングが五輪種目になる。5人の常呂っ子がオリンピアンになった。「常呂から世界へ」が実現したのだ。

 しかもテレビの中で日の丸をつけて活躍しているのはセイコーマートやホーマックで顔を合わせる彼女たちだ。心が震えるような瞬間が何度もあっただろう。帰国した彼女たちに顔をほころばせ拍手を送っただろう。

 しかも喜びは続く。銅メダル、そして銀メダル……。

 常呂町とカーリングの42年は、たとえばこんな物語でもあったのだ。

 夢の灯を燈した人がいて、それを受け継いだ人がいて、だから、ここまで辿り着くことができた。

 もちろん、物語は続いていく。

 カーリングが(ブームと言いたくなるような)盛り上がりを見せる一方で、その聖地であるはずの常呂町(北見市)は、各地の地方都市と同様、人口減少と経済のシュリンクに直面している。

 いまやカーリングホールではオリンピアンが隣のシートで練習している。直接教えてもらえる機会だってある。でも、未来を託すはずの子供たちはどんどん……。

 それでも、やっぱり次の誰かがバトンを握り締めて、「常呂町とカーリングの物語」をつないでいくのだろう。

 これまでがそうであったように――。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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