【江戸漂流記】漂流少年、太平洋を越えて!勇之助、波間に揺れる運命
天保3年(1832年)、越後国岩船郡板貝村(現在の新潟県村上市)に生まれた勇之助は、父を8歳で亡くし、若くして家族を支える運命を背負いました。
嘉永5年(1852年)、蝦夷地との交易船八幡丸に乗り組みますが、9月の暴風で船は津軽海峡から太平洋へ漂流します。
13人の乗組員は極限状態に耐えましたが、翌年5月までに勇之助以外は全員が命を落としました。
その後、1853年6月にアメリカ商船エマ・パッカー号に救助され、サンフランシスコに到着します。
ここで偶然、日本人漂流民の浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)と出会い、通訳を通じて遭難の詳細を伝えることができました。
アメリカでの滞在中、勇之助の漂流談は新聞でも取り上げられ、日本の文化やひらがなの表などが掲載されるほど注目を集めます。
帰国を望んでいた勇之助は、実業家サイラス・E・バロウズの支援を受け、彼の商船レディー・ピアース号で日本を目指します。
1854年7月、下田に到着し日本側に引き渡されると、下田奉行所で通訳としての才能を評価されました。
しかし故郷に帰りたいという強い願いから通訳登用は辞退し、江戸での取り調べを経て米沢藩に引き渡され、無事に帰郷を果たしたのです。
帰郷後、養子となり「良之丞」と名を改めた勇之助は、求められるまま体験談を語り、地元の人々に海外の広大な世界を伝えました。
彼の物語はのちに複数の「聞書」として記録されました。
明治33年(1900年)、68歳で生涯を閉じた勇之助の名は、八幡丸とともに地元の慰霊碑に刻まれています。
彼の壮絶な経験は、江戸から明治へと変わる時代を映し出す貴重な証言として語り継がれています。
参考文献
鈴木由子(2006)「開国後の漂流民の帰国について ―八幡丸の勇之助を例に―」『京浜歴科研年報』18号