戦後最大の人権侵害 "優生保護法"と闘った弁護士と被害者女性 なぜ悪法は放置されたのか?#令和の人権
「戦後最大の人権侵害」といわれる障害者らへの強制不妊手術。その根拠となった旧優生保護法について、最高裁判所大法廷は7月3日、「立法時点で違憲だった」と厳しく断罪、原告の障害者らへの損害賠償を命じた。7月17日午後には岸田文雄首相が首相官邸で原告らに面会、「政府の責任は極めて重大なものがあり、心から申し訳なく思っており、政府を代表して謝罪を申し上げます」と述べた。旧優生保護法は個人の生殖機能を強制的に奪う明白な人権侵害に法的根拠を与え、1996年にその条項が削除されてからも、被害は長らく省みられることはなかった。その問題が社会に大きく取り上げられるようになったきっかけは、手術によって壮絶な嫌がらせを受けた飯塚淳子さん(仮名)と、弁護士として痛恨の過去をもつ新里宏二弁護士の出会いにあった。
(Yahoo!ニュース ドキュメンタリー)
「世界を変える素晴らしい闘い」
7月3日午後、最高裁判所の前で「勝訴」の紙が掲げられた。旧優生保護法のもとで強制的に不妊手術を受けさせられたのは憲法に違反すると、障害者らが賠償を求めた上告審。大法廷は原告の訴えを認め、被害者の救済に全面的に道を開く画期的な判決を出した。
原告弁護団の共同代表を務めた新里宏二弁護士は、満面の笑顔で被害者たちと抱擁を交わし、積年の思いを語った。
「最高裁をも動かした、世界を変える素晴らしい闘いだった。国が差別を認めた。被害者が声を上げたから社会を変えることができた。勇気を持って声を上げることによって、ここまでたどり着いた。すばらしい闘いを当事者たちがして、それを弁護団も総力を持って支えてきました」
原告の一人である飯塚淳子さんも声を震わせた。
「今日は最高の日です。長い間、謝罪を求める会の人たちにお世話になりながら、ここまでやってきました。皆さんにはお世話になりました。本当にありがとうございました」
それから14日。岸田文雄首相は飯塚さんらに会い、国の責任を全面的に認めて謝罪した。
「不良な子孫の出生防止」を目的に
旧優生保護法は、戦後間もない1948年に議員立法で成立した。「不良な子孫の出生防止」を目的に掲げ、遺伝性の疾患がある人や障害者らに強制的に不妊手術を受けさせることを認めていた。背景には世界的に広まっていた「優性思想」に加え、外地からの引き揚げ者らによる急激な人口増もあった。
優生保護法問題の全面解決を目指す全国連絡会によれば、この法律により、障害などを理由に不妊手術を受けさせられた人は2万4993人、人工妊娠中絶は5万8972人に上る。子宮・卵巣や睾丸の摘出など、優生保護法で定められていた範囲を超えて手術をされた人もおり、実際の被害者数はさらに多いと言われている。
96年に母体保護法に改正され、優生手術についての条項は削除された。それから飯塚さんら被害者たちは、救済を求めて政府と交渉を始めた。だが、政府は「当時は合法」だったと取り合おうとせず、社会的な関心も高まらなかった。その状況を動かしたのが、飯塚さんと新里弁護士との出会いだった。
子どもを産めないことへの壮絶な嫌がらせ
飯塚淳子さんは、1946年に宮城県で7人きょうだいの長女として生まれた。父親は船乗りだったが、片目を失明して仕事ができなくなった。飯塚さんは学校には行かずに、親の代わりに子守りや家事を手伝った。そんなある日、飯塚さんは民生委員により福祉事務所へ通告され、知能テストを受けさせられた。学校には行っていなかったので、テストの結果は芳しくはない。すると60年4月、知的障害者ではないのに、開所したばかりの知的障害者施設に入所させられた。卒業後は自分の意志とは関係なく、「職親」のもとに住み込みのお手伝いとして預けられた。「他人の子どもだから憎たらしいね、この子は」とホウキで背中を叩かれ、虐待を受ける日々が続いた。そして、17歳ぐらいのころ、その日を迎えた。
「職親が私を愛宕橋近くの病院に連れて行きました。橋の下のベンチでおにぎりを1個食べさせられて、そして診療所に連れて行かれて。いつ麻酔かけられてたのかも覚えていなくて。ただ、目が覚めた時なんでしょうね。小さな洗面所が枕元にあって、お水を飲みたくて飲もうとしたら、看護師さんに『水は飲んじゃ駄目だ!』って言われたのはハッキリ覚えているんです」
その後、たまたま実家に帰った時に両親の会話を聞き、不妊手術を受けさせられたと知った。そこから飯塚さんの苦しみが始まる。激しい腹痛に悩まされるようになり、妊娠できないのに生理が続いた。職親の元を離れ、18歳の時に上京。子どもが生まれる体に戻したくて何度も病院に行ったが、かなわなかった。
子どもがいる幸せな家庭を築きたい。そう願っていた飯塚さんは、21歳で結婚した。子どもを産むことはできないと知っていたので、知人の紹介で養子を迎え入れた。色白で可愛らしい顔つきの男の子。飯塚さんはその成長を間近で見守り続けていきたいと思っていた。しかし、自閉症を患っていた息子は施設に入所し、その願いも奪われる。
離婚後に再び結婚。優生手術のことを打ち明けると夫の家族から無理やり離縁を迫られた。30代で最後の結婚。「すごくいい人と巡り合った」というが、夫に優生手術のことを打ち明けると、周囲の態度が一変した。夫の職場の社長から「なんでお前ここにいるんだ、子どもを産めない奴は必要ねえだろう!」と罵倒され、耐えきれなかった夫は失踪した。飯塚さん自身も家から追い出された。「生きている意味ないだろ」「女ってのは子どもを産めなきゃ駄目だ」と、壮絶な嫌がらせを受けた。
その後、支援団体とともに被害を訴えてきた飯塚さんが新里弁護士に出会ったのは2013年8月。仙台市で開かれた弁護士による無料の「なんでも相談会」でのことだった。多重債務の救済を中心に取り組んでいた新里弁護士は、旧優生保護法について当時は何も知らなかったという。飯塚さんの訴えを聞いて、「嘘だろ。そんな法律があったのか」と絶句した。それから勉強を始め、「優生手術に対する謝罪を求める会」の存在を知る。2週間後、再び飯塚さんから詳しく話を聞くと、飯塚さんから話を聞いた「求める会」の世話人から電話をもらった。新里弁護士は翌日には東京へ出向き、「求める会」から被害の全容をヒアリングし、国家賠償請求訴訟を考え始めた。
新里弁護士を動かしたある後悔
新里弁護士がすぐに動き始めたのには、理由がある。かつてサラリーマン金融からの取り立てに悩む老夫婦が事務所を訪れてきたことがある。だが、新里弁護士はその日のうちに会うことができず、結果的に2人を自死へと追いやってしまったのだ。「2度と同じ過ちは繰り返してはならない」。新里弁護士には、そんな使命感がある。
国家賠償請求には、乗り越えなければならない2つの大きな壁があった。1つは、手術や法改正から長い時間がたったことによる「時間の壁」。不法行為があってから20年の間に訴えを起こさないと、賠償請求権は消滅してしまう。2つ目は「証拠の壁」だ。民事訴訟では、訴えに関する事実は原告側が証明しなければならない。飯塚さんは1963年の1月か2月ごろに手術を受けたが、なぜか記録が載っているはずの62年度の優生手術台帳を宮城県は保管していなかった。
そこで新里弁護士が考えたのが、日本弁護士連合会への人権救済申し立てだ。2015年6月、飯塚さんの証言や求める会の記録などをもとに救済を申し立てると、日弁連は17年2月、政府に対して当事者たちへの謝罪と補償を求める意見書を提出した。新里弁護士の思惑通り、意見書は新聞やテレビで大きく報じられた。ここで、新里弁護士が予想もしなかったことが起こる。報道を見た佐藤路子(仮名)さんから、1本の電話が寄せられたのだ。宮城県に住む60代の義理の妹が、10代で優生手術を強制されたと聞いている。もしかしたら優生保護法の被害者かもしれない、という問い合わせだった。
佐藤さんは宮城県に情報公開請求を行い、17年6月に手術の記録が見つかった。こうして証拠の壁が乗り越えられたのを契機に、各地の被害者が訴訟を起こし始めた。
もし2人が出会わなければ
飯塚さんの養子には軽度の障害があり、いまは働きながら福祉施設で暮らしている。飯塚さんも団地で一人暮らしだ。もし、優生手術を受けない人生を歩んでいたら、家族は一緒に暮らしていたかもしれない。
「他人の子どもだからって、憎いとは全く思わない。子どもを不幸にさせてはいけない」と飯塚さんはいう。かつて民生委員によって職親の元に預けられ、実の子どもと比較されて虐待されたことがあった。この経験が心に深く刻まれているからこそ、自分の子どもには同じような不幸な思いをさせてはいけない。その一心で30年近く戦い続けてきたという。
一方の新里弁護士。最高裁では、こう弁論した。
「被害者への共感と連帯が広がり、大きな流れとなって、地方裁判所、高等裁判所の裁判官をも動かし、大法廷まできました。本件は被害者が声を上げることが社会を変える力になることを具体的に表しています。本件における最高裁大法廷の判断は、障害者権利条約や憲法が定める差別のない社会、全ての人が個人として尊重される社会への大切な一歩になります。そのためにも、最高裁判所におかれましては、自ら『創造の担い手』として、本件についてまことに正義と公平にかなう判断をされるよう求めます」
2人が出会わなければ、今回の最高裁の判断は出なかっただろう。判決を前に、最高裁には全国から「正義・公正の理念に基づく判決」を求める33万3602通の署名も寄せられていた。
一人ひとりの力が、社会を動かした。
【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】
監督・撮影・編集・記事:新山 正彰
音楽:宮﨑 雨水男
タイトル:中田 早紀
グレーディング:足立 悠介
プロデューサー:金川 雄策 小林 実歩
記事監修:国分 高史