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抜かれた「安全ピン」…北朝鮮の衛星発射を受け韓国政府が『9.19南北軍事合意書』一部効力停止を決定

徐台教ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長
南北関係の今後はどうなるのか。尹錫悦大統領(左)と金正恩委員長(右)。筆者作成。

 過去5年の間、まがりなりにも南北関係の枠組みを作ってきた『南北軍事合意書』がついに、一部効力停止となった。その背景と影響を整理した。

◎22日午後3時に飛行禁止区域がなくなる

 22日午前、韓国の尹錫悦大統領が『9.19南北軍事合意書』の部分効力停止を裁可したと大統領室が明かした。理由は前日21日午後、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が軍事偵察衛星『マンリギョン−1』を発射したためだ。

 韓国政府はこれを「重大な挑発行為」で「北韓(北朝鮮)が南北間の合意を守る意志が全くないことの表れ」と位置づけ、22日午後3時から同合意書の1条3項にある「飛行禁止区域の設定」の効力を停止することを明かした。

 これは「固定翼、回転翼、無人機、気球」などの種類と東西地域によって、南北それぞれ10キロから40キロまで設定された飛行禁止区域を今後、韓国が守らないという宣言に他ならない。

 これにより韓国側からの自由な偵察が可能になる見通しだ。今日の明け方に「軍事的履行計画を点検した」とも発表したので、午後3時に何かしらのアクションを取るだろう。

 同合意締結の主体たる韓国国防部の申源湜(シン・ウォンシク)長官がかねてからこの対応を明言していたため驚きはないが、過去5年にわたって維持されてきた「秩序」の一端が無くなることの意味はそう小さくない。

今回効力停止となった「空中敵対行為中断区域」を説明した地図。『南北軍事合意書』説明資料より引用。
今回効力停止となった「空中敵対行為中断区域」を説明した地図。『南北軍事合意書』説明資料より引用。

なお、南北軍事合意書の全訳は以下のリンクから読めます(外部サイト)

[全訳] 歴史的な『板門店宣言』履行のための軍事分野合意書(2018年9月19日平壌)

◎金正恩と文在寅の「合意」

 「数十年のあいだ続いてきた凄絶で悲劇的な対決と敵対に歴史を終わらせるための軍事分野合意書を採択し、朝鮮半島を核武器と核脅威のない平和の地に作り上げるため、積極的に努力していくことにしました」

 18年9月19日午後、北朝鮮の首都・平壌の百花園迎賓館で茶色い眼鏡をかけた金正恩国務委員長はこう述べて、自ら拍手の音頭を取った。

 その直後、韓国の文在寅大統領(当時)は「戦争の無い朝鮮半島が始まりました。南と北は今日、朝鮮半島の全地域で戦争が起こし得る全ての危険を無くすことに合意しました」と続けた。

 やはり拍手が起きた。両首脳ともに笑顔はなく、会見場には緊張した空気があった。70年の分断の歴史の中ではじめてとなる内容だが、その言葉には重みがあった。

18年9月19日『平壌共同宣言』に署名した南北両首脳。写真は平壌写真共同取材団。
18年9月19日『平壌共同宣言』に署名した南北両首脳。写真は平壌写真共同取材団。

◎「軍備統制」のはじまり

 『9.19南北軍事合意書』または『軍事合意書』と呼ばれる合意の正式名は、『歴史的な「板門店宣言」履行のための軍事分野合意書』だ。

 18年4月27日に板門店で行われた11年ぶりの南北首脳会談で文在寅と金正恩が署名した『板門店宣言』の核心は「南と北は朝鮮半島の恒久的で強固な平和体制構築のために積極的に協力していく」という第三項にある。

 これを実現するための装置、つまり武力衝突につながるような要素をあらかじめ排除し、より平和を促進するための枠組みが『南北軍事合意書』だった。国家間の合意により互いの脅威を減少させる「軍備統制」を実現するものだ。

 地上、空中、海上で軍事行為を行ってはならない地域が設定され、兵士が至近距離で向き合う板門店の非武装化も明記され、その多くは実行に移された。

 重武装していた板門店の兵士は南北共に丸腰となり、東西255キロの軍事境界線に合計200以上あった南北双方の哨所(GP)がそれぞれ11か所撤去された。

◎北朝鮮の違反は「3400余回」

 しかしこの合意が韓国に不利という声は締結当時から存在した。在来戦力、特に偵察分野で韓国が持つ圧倒的な長所が合意により生かされないという保守派からの指摘だった。

 22年5月に尹錫悦政権が発足してからはこの声はさらに大きくなった。申源湜国防部長官は先月の国政監査の席で過去の北朝鮮の違反が「3400余回」にのぼったと明かしている。なおこの中には砲門のフタを開け閉めした回数も含まれている。

 並行して北朝鮮が韓国への核使用を可能にする形へと『核ドクトリン』を改定し、核弾頭を搭載できる弾道ミサイルの開発など軍事力の強化に「全振り」することでついに効力停止へと至った形だ。

 それにしても韓国内に存在する視点の差は興味深い。

「強者の韓国が譲歩することが南北関係の改善につながる」というのが文在寅をはじめとする進歩派の論理であり、「強者の韓国が譲歩するため金正恩がつけあがる」というのが尹錫悦をはじめとする保守派の論理である。

どちらの見方が正しいのか、歴史はいまだ判断を下していない。

21日午後10時42分、偵察衛星『マンリギョン−1』を載せて打ち上げられた新型衛星運搬ロケット『チョンリマ−1』。朝鮮中央通信より引用。
21日午後10時42分、偵察衛星『マンリギョン−1』を載せて打ち上げられた新型衛星運搬ロケット『チョンリマ−1』。朝鮮中央通信より引用。

◎「安全ピン」なき今後の南北関係

 『9.19南北軍事合意書』は先にも述べたように平和を促進するための合意であった。

 当時南北の交渉を担った青瓦台(韓国大統領府)の崔鐘建(チェ・ジョンゴン)平和軍備統制秘書官は5年前の9月19日、同合意について「南北関係の持続的な発展のための安全ピンだと見る」と表現している。

 いま想起すべきは17年の状況である。当時、米朝は開戦一歩手前だったことがすでにいくつかの信頼できる書籍により明らかになっている。

 この危機を乗り越え作られた安全装置が『9.19軍事合意書』であった。何が起きても全面衝突に向かう一定の線を越えないようにする、文字通りの「安全ピン」としての役割だ。

 安全ピンが抜ける場合、爆弾は爆発する。効力停止が現実となったことにより、偶発的な衝突が起きる可能性は今より格段に高まった。

 北朝鮮は特に韓国側から飛ばす体制批判ビラへの警戒を強めている。今はまだ北風のためビラ散布は限定的にしか行われないが、3月を過ぎると風は南風となる。

 韓国による直接的な北朝鮮への体制批判が行われる場合に何が起きるのかは、14年10月、15年8月と続いた南側への砲撃、そして20年6月の南北共同連絡事務所の爆破を想起すれば十分に想像がつく。

 南北間に衝突が起きる場合、戻れる場所はもう存在しない。

 そしてその時にこの「安全ピン」が朝鮮半島のためのものではなく、東アジアのためのものであったことに人々はようやく気づくだろう。韓国政府や周辺国には怒りではなく冷静な判断が必要な時期だ。

ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長

群馬県生まれの在日コリアン3世。1999年からソウルに住み人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年韓国に「永住帰国」すると同時に独立。16年10月から半年以上「ろうそくデモ」と朴槿恵大統領弾劾に伴う大統領選挙を密着取材。17年5月に韓国政治、南北関係など朝鮮半島情勢を扱う『コリアン・ポリティクス』を創刊。20年2月に朝鮮半島と日本の社会問題を解決するメディア『ニュースタンス』への転換を経て、23年9月から再び朝鮮半島情勢に焦点を当てる『コリア・フォーカス』にリニューアル。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。22年「第7回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。

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