「未来に何を残せるか」―災害で故郷を失った台湾先住民芸術家の作品に託す思い
台湾南部の奥深い山中の村に住む先住民ルカイ族。その王女として生まれたエレン(中国語名:安聖恵)は、いったんは故郷を離れ台北で自由に暮らしていた。離婚を機に村に戻ったエレンは、芸術家らと出会い創作活動を始める。その中で自身と故郷とのつながりの大きさに気づくようになっていったが、故郷の村は2009年の台風によって跡形もなく流されてしまう。失われた村の記憶を後世に伝えるため、自分に何ができるのか――。彼女の創作の原動力に迫った。
・「最も美しい記憶」が残る好茶村での生活
台湾には、中国大陸から移住してきた漢民族のほかに、古くから先住民が住んでいる。16の民族が当局によって公認され、独自の言語や生活習慣が存在する。そのひとつのルカイ族は、台湾南部の高山に住んでいる。その発祥の地とされるのが、好茶村だ。台湾中央山脈南部の標高1000mの山の急斜面に位置する村に、ルカイの人々は600~700年前からこの地に定住し、自らを「Tsalisian(山地に住む人)」と呼んでいた。主に農業と狩猟で生活していたルカイの人々は、鮮やかな冠や装飾品で身分を表していたこともあり、彫刻や陶芸、織物などの芸術に秀でていた。
エレンは1968年、頭目(村の長)である母から7人きょうだいの長女として生まれ、9歳までこの地で暮らした。村には大きな滝つぼがあり、家族や友達と泳いだり、カニやカエルを捕まえたりしてよく遊んでいた。幼い頃から花や野草を採集するのが好きで、当時は珍しかったミルク缶や誰も欲しがらないようなものを集める癖は今も変わらない。一方で、頭目の娘として生きるには常に人目を気にする必要があり、窮屈さを感じていたという。
・厳しい環境が独自文化を育む
街から好茶村まで行くにはいくつもの崖を越える必要があり、道のりは長く険しい。夏になると梅雨や台風による川の増水と土砂崩れで道がなくなる。いったん足を踏み外すと、崖下に真っ逆さまだ。こうした環境が外からの人の流入を防ぎ、ルカイ族独自の文化を育んできた。一方で、村民からは医療や教育の充実を求める声があがるようになる。1979年、村民は政府との協議の末、集団で村を離れ、山麓の川沿いに移住した。この地を新好茶村と名付け、それまで住んでいた土地を旧好茶村と呼ぶようになった。現代的な生活を求めた若者たちは金銭を得るため、自給自足の生活をやめ街に出た。ただ、当時は先住民に対する目は冷ややかで 、彼らは社会的、経済的、職業的な差別を受けた。
・流木との出会い
エレンは高校を卒業すると台北に出て、美容師や衣服工場の工員、看護の職を転々とした。離婚をきっかけに村に帰郷。花屋を経営する傍ら、台湾南東部の台東市の海辺で出会った芸術家ら10数名とともに自然の中で衣食住を共にする集団生活に入った。人と自然との共存を考えた3ヶ月の生活をへて、それぞれの芸術家が作品を発表。この頃からエレンも創作活動を始めた。
海辺には、台風や土砂崩れによって河川から流されてきた流木が転がっている。山奥の旧好茶村では見たことがなかった風景にエレンは魅了された。生きた樹木が流される過程で岩や木々にぶつかり、海辺にたどり着く。「死体をみているようだった」と彼女は振り返る。ひとつとして同じ形、重さでない木々を、まるで何かに取りつかれたかのように集めたという。
そんなある晩、彼女は夢を見た。すでに死んでしまった樹木が、夢の中の旧好茶村で家族とともに生きていた。彼女はこの夢を作品に昇華した。
山から流されてきた大木を集め、それを浜辺で組み立てたその大型アート。題名は「女王的沈黙(女王の沈黙)」。好茶村の頭目であった母を思い、制作したという。
その後、新たに台東に居を構えた エレンは、流木や自然のものを軸とした大型アート作品を次々と制作した。やがて台湾だけでなく海外からも注目され始め、台湾内外の展覧会に出品するようになる。彼女は改めて一度離れた故郷と自分との関係性に気づく。
・失われていくルカイの文化、そして村の消失
この1世紀の間、台湾先住民は現代化の波に飲まれていた。先住民の暮らす村には産業がなく、自然との共生から脱却した現代的な生活を求める若者は村を離れた。残されたのは高齢者ばかり。文字を持たない彼らの言葉や文化、規範は継承されず、失われていった。新好茶村も例外ではない。
決定的な打撃となったのが、2009年8月に台湾南部を襲った台風だ。台湾で「88水害」と呼ばれ、全土で約700人が亡くなった。新好茶村は土石流に飲み込まれ、完全に消失した。前年の台風で発生した土石流の影響で、村民は仮設住居で暮らしていたため死者は出なかったが、あらゆる家財や文化資料が流されてしまった。当局は、村民の新たな移住先を新好茶村から少し離れた小高い場所に用意した。名を礼納里村と定めた。
・「芸術を通してルカイを後世に伝えたい」
災害が発生してから、エレンの創作は大きく変化した。流木など自然の材質を用いて創作を続けていたが、災害以降これらの材質を使うことはほとんど無くなった。岩や木々にぶつかり、押し流された流木は死や傷を連想させるからだという。その後の彼女はプラスチック素材や糸を用いた創作をするようになる。彼女は水害、そして失った故郷と向き合えるようになるまで、約10年かかった。
エレンは長らく帰っていなかった旧好茶村に、一人、自らの足で向かった。人々が村を離れてから40年もの時がたっている。山道を整備する者はおらず、石を積み重ねた伝統家屋「石板屋」は梁(はり)が朽ちて崩れ落ち、雑草がうっそうと生い茂っていた。それは彼女の知っている風景ではなかった。それでも、彼女は言う。
「たとえ故郷への道が跡形もなくなくなったとしても、その道や休憩所などには、祖先のさまざまな物語があったでしょう」
2021年、エレンは台北の美術館「MoCA Taipei」で「Ali Sa be Sa be / 土石流 我在未來想念祢(私は未来にあなたを想う)」を発表した。彼女が知る旧好茶村の風景や水害を作品にした。
作品は、糸を立体的に編んで村を表現。天井からは梱包に使うPPバンドを編んで吊るし流れゆく山と土石流を体現した。
台湾師範大学美術学科の白適銘教授は、こう語る。
「この作品は崩壊がテーマの一つです。彼女の作品は私たちと失われた過去の記憶とをつなぎ合わせてくれます。再建の過程では多くのモノが失われますが、唯一、記憶だけが頼りになります。彼女はその一つひとつの記憶の断片を紡ぎ合わせてこの作品を制作しました」
現代化の波と自然災害によって失われてしまった自然の美しい光景や文化、私たちの住む日本でも、同じように年月を経て失われた景色や伝統は少なくない。
だが、かつての故郷や人々の姿がなくなった今でも、彼らの中に故郷は「記憶」として存在し続けているのではないだろうか。
一度は村を、そして頭目の娘という身分を離れ、自由な生き方をしてきたエレン。
エレンの心の中にも、ルカイ族としての伝統や規範、誇りは生き続けていた。
故郷が失われても尚、ルカイの伝統、精神をエレンは芸術作品という形で、後世に伝えようとしているようだ。
クレジット
監督・撮影・編集:小川貴士
プロデューサー:山本あかり
監修:岸田 浩和
取材・アーカイブ協力:中央研究院 MoCA Taipei 黄継賢 王信 白適銘
Special thanks:安聖惠 大海 李瑞珍 萬進三 謝念澄