「スープとイデオロギー」のヤン ヨンヒ監督は、いかにして突破者になったか? その覚悟の凄みとオモニ
ヤン ヨンヒ監督の新作ドキュメンタリー「スープとイデオロギー」が評判である。2度、3度見たという人も少なくない。韓国でも10月から全国上映が続いている。何度も見たくなる映画というのはダシがよいからである。済州4.3事件、「総連バリバリの家庭」、北朝鮮に渡った3人の兄、新しい日本人の相棒、母の老い。そしてヤンさんの表現者としての葛藤と突破の覚悟も、ダシとなって染み出ている。「スープとイデオロギー」に至るまでに何があったのか?
◆朝鮮大学校の卒業生たち
私がヤン ヨンヒさんと初めて会ったのは1993年初めの寒い日の夕暮れ時だったと記憶している。朝鮮大学校の卒業生で構成する劇団「パランセ」(青い鳥の意)の大阪市内の稽古場を取材で訪れた時だった。中心俳優の一人だったヤンさんは、長い体躯を折りたたむようにして稽古に備えてストレッチをしていた。
稽古場には朝鮮語と日本語の混ざった、いわば「ちゃんぽん言葉」(彼らは「ウリハッキョマル」=わが学校言葉と言っていた)が飛び交っていて面食らったことを覚えている。「パランセ」はひとつの芝居を日朝二言語で演じるバイリンガル劇団を標榜していた。
メンバーたちの朝鮮語力はずば抜けていた。私と同世代の在日の中で最高の朝鮮語の使い手たちだったのは間違いないと思う。なんせ朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が「民族の最高学府」と位置付ける朝鮮大学校を出るまで、10年以上も朝鮮語漬けのキャリアがあるのだ。
この取材の前年の5月に南北朝鮮は国連に同時加盟し、対話も軌道に乗りかけていた時期だった。メンバーたちの口から「演劇を通じて日本人と在日の、南と北の懸け橋になりたい」という夢と展望が語られた。「総連系コミュニティ」のど真ん中で生きている同世代との出会いはとても刺激的だった。
一方で、「パランセ」のメンバーたちは窮屈さを吐露することがあった。朝鮮大学校は総連のエリート養成機関である。進路と言えば、総連関連団体や朝鮮学校の教員、あるいは同胞企業への就職が大半で、自営業をしている実家を継ぐケースが少々あるくらいだという。
もっと外の世界に出てみたい、自分を試したいと言うのだった。朝鮮学校を卒業する際の進路を総連の決定に委ねる「組織委託」が普通に行われていた時代だった。「演劇は初めて自分自身で選んだ進路」というメンバーもいた。
※ヤンさんは小説「朝鮮大学校物語」(角川文庫)で、「日本の中の北朝鮮」ともいわれる朝鮮大学校生の青春を、体験をもとに軽快に甘酸っぱく描いている。
紹介記事 https://book.asahi.com/article/11669155
◆映像の世界へ
ヤンさんが演劇の次に自分で選んだ道は映像の世界だった。最初の作品は「What is ちまちょごり?」 (1995年NHK・BS) だ。
1994年、朝鮮学校の女子生徒が登下校中に制服を切られる事件が各地で相次いでいると朝鮮総連が発表した。前年に北朝鮮が日本海に向けて弾道ミサイル発射実験を行ったことへの反発が関連していると見られた。
「チマチョゴリ切り裂き事件」は注目されたものの、そもそも朝鮮学校と在日生徒に対する認知は低かった。ヤンさんは、チマチョゴリを制服として着る朝鮮学校生をテーマに、母校でもあり教員も務めた大阪朝鮮高校の女子生徒たちに、小型のビデオカメラを向けた。
生徒たちに語りかけながら、カメラのレンズを自分の目のようにして撮影するヤンさんの「主観撮影」の手法はとても新鮮だった。生徒たちは身内に撮られているようにリラックスしてヤンさんに応える。行き交うのは日本語と朝鮮語の「ちゃんぽん語」だ。それまでテレビで映し出されたことのない朝鮮学校の内側。このヤンさんによる一人称形式のドキュメンタリーは、「NHKには絶対に撮れない」と高い評価を得た。
※この手法を駆使したのが後述する「ディア・ピョンヤン」と「愛しきソナ」、そして新作の「スープとイデオロギー」である。
関連記事 「日本の中の北朝鮮」描くヤン ヨンヒ監督は人生賭けて映画撮る「越境人」
◆衝撃作「ディア・ピョンヤン」
その後、いくつかテレビ番組を制作した後、ヤンさんはニューヨークに渡って本格的に映像を学び始めた。並行して、帰国事業で70年代初盤に北朝鮮に渡った3人の兄家族のもとに通い、作品化を模索しながら両親のいる大阪と北朝鮮で撮影続ける。10年の時を経て完成したのが、「ディア・ピョンヤン」(2005年)と「愛しきソナ」(2009年)だ。
この2作品は、北朝鮮取材経験のある報道関係者の間に、「よく撮ったものだ」「公開できたのがすごい」と、ちょっとした衝撃を与えることになった。
私は90年代に平壌と地方都市に計3度、北朝鮮を訪れる機会があった。事前に多くの訪朝経験者から聞いていた通り、寝ている時以外のほとんどの時間に「案内員」という名の監視が付いた。街を自由に歩き回ることもできないし、住民たちと腹を割って話をすることもできない。外部の人間には絶対に越えることができない「高い壁」があることを実感することになった。
「ディア・ピョンヤン」には、いわゆる「衝撃映像」はない。アパート街の裏通りの様子は出てくるが、兄家族たちの飾らない素の姿が「主観撮影」の手法で、生き生きと撮られているだけだ。それは当局の立ち会いや監視が緩い条件だからできたわけで、外国人には絶対に踏み込めない「高い壁」の向こう側の世界であった。
だが、この作品が公開されると大問題になった。総連はヤンさんを北朝鮮入国禁止にしたのだ。ヤンさんは北朝鮮政府に反対するために作ったわけではないし、金正日政権(当時)が隠したい民衆の窮乏の実態が映り込んでいたわけでもない。
ただ家族に密着して撮った映像すら目の敵のようにして規制される。政権と総連の「検閲基準」が奇しくも明らかになったわけだ。北朝鮮が民主化と開放に進まない限り、「ディア・ピョンヤン」のような作品は、今後生まれることはないのではないか。
平壌での撮影を作品化する際、兄一家に悪い影響が出たらどうするのか。周囲も心配し、ヤンさんも苦悩したはずである。当時を振り返ってヤンさんはこのように言う。
「『ディア・ピョンヤン』を作った時は、家族に迷惑かからないようにするにはどうしたらいいかと思いながら構成を考えたり、言葉を選んでナレーション作ったりしましたが、でも正直な思いも出したい。実際には、いくら気を付けても家族の安全保証に『絶対』はないじゃないですか。私が正恩様万々歳の映画でも作らない限りは払拭できないと思うんです。でも、作りたいというか、なんか吐き出したいというか、そっちの方が勝ってしまいました」
関連記事「北朝鮮と私、私の家族」 ヤン ヨンヒ監督インタビュー全12回
◆朝鮮総連の二つの顔
朝鮮総連には二つの顔がある。一つは、在日コリアンの互助組織、権利擁護組織という顔だ。日本で社会的、制度的に差別され、排除されてきた同胞の人権や暮らしのために助け合い、闘ってきた。金融機関や朝鮮学校などの設立と運営は、もともとこのような目的で営まれてきたものだ。
もう一つは、朝鮮労働党の日本支部という顔だ。労働党は階級なき社会を建設するための革命党として立ち上がったが、60年代後半には金日成への(後には金正日、金正恩と三代続く一族への)絶対忠誠、絶対服従を強要するシステムを、いわば維持管理するのが役割になってしまった。それは日本支部たる総連組織にも貫かれて今日に至っている。
総連の承認なく在日が祖国で撮影した映像を作品化するなどもってのほかだ……総連がヤンさんにペナルティを科そうとした理由は、こういうことだったのではないか。
◆タブー粉砕に動いた娘 その時オモニは?
さて、ところでヤンさんの映画作りについてオモニ(母)の反応はどのようなものだったのだろうか? 長く総連の女性組織で活動し、金日成賛美の歌を愛唱し、三人の息子を北朝鮮を信じて送った人である。娘が総連のくびきを離れ、突破の覚悟を固めていく姿をどう見ていたのか?
「ディア・ピョンヤン」の時、母は『家族の記録でもあるので、映画で残してくれてありがとう』と言ってくれたんですが、『それにしても、あんたもしんどい生き方するなあ』とも言われました。もうちょっとふわふわした可愛らしい恋愛もんでも撮ってたら、平壌の家族にも引き続き会えるし、総連組織から文句も言われないのにと」
――ややこしい問題が起こるからやめなさいとは言わなかったですか?
「逆です。一度もやめろと言ったことはないです、うちの両親も北にいる兄たちも。私が北朝鮮に入国禁止になったことを、母はすごく怒っていました。映画に文句があるのなら、直接作った人間に伝えればいいだけの話なのに、総連は私には何も言ってこない。鶴橋の実家に怒鳴り込んでくる人はいましたよ。名前も名乗らず母にすごく攻撃的な電話をかけてきた人も。『名前も言わへん! でも誰なのか、声を聞いたらすぐ分かったわ。ほんま情けない人らや』って笑ってました」
◆映画「かぞくのくに」
2012年に封切られたヤンさん初の劇映画「かぞくのくに」は、映画監督としての覚悟がさらに突き抜けたことを示す作品だった。
平壌に住む末兄が1999年に病気治療の名目で奇跡的に日本に来ることが許されたものの、わずか1週間で帰還命令が出され、治療もままならないまま日本を離れることになった実話をもとに作られている。兄が日本に戻るのは実に28年ぶりだ。その貴重な時間を緊張したものにさせたくないとヤンさんは考え、カメラを一切回さなかった。
舞台は兄を迎えた大阪の実家だ。妹であるヤンさん役=リエを安藤サクラさんが演じた。劇中、兄の監視役として北朝鮮から付いてきた男(ヤン・イクチュン)が、兄を平壌に返すために車に乗せようとするシーン。
「あなたも、あの国も大嫌い!」 ヤンさんはリエに、そう叫ばせている。
「母にあのシーンを見せるのは辛いな、思い出してすごく泣くやろなぁと思っていました。ところが泣かなかったんです。『オモニ、涙出へんかったん?』って聞いたら、『あんたはほんまに怒ってたんやなあ』と。それで『もう分かった、あんたの仕事には一切口出しせえへん。体だけは気をつけなさい』と言って、毎月あの参鶏湯のスープを東京に送ってくれました」
◆ヤン監督の覚悟
在日であれ、日本人あれ、北朝鮮のことを描くとどこかからか石が飛んでくるものである。ヤンさんの場合は自分にだけでなく、家族にヤリが降って来るかもしれない。どう受け止めていたのだろうか?
「映画のことを兄たちに伝えたら、『ヨンヒは好きなことやっていい』と言ってくれました。それでもう、我慢するのは嫌だ、撮りたいものを撮って、言いたいことを言う。私は絶対に我慢せえへん。そう決めたんです。
私は6人家族で、日本で暮らしている両親も含めて5人が北朝鮮の体制の下で生きたようなものでした。6人のうちひとりくらいは、言いたいこと言ってもいいのではないか、オモニの分も、兄たちの分も。
在日を扱った作品はあるけれども、北と密接につながった生き方をした在日を正面から捉えた作品はありませんでした。もっとそういう作品が出ないとあかんと思います」
のっぴきならない覚悟が詰まった言葉だ。葛藤に苦しみ、壁を突破する度にそれは研ぎ澄まされていったに違いない。私はヤンさんに凄みすら感じたのであった。
※ヤン ヨンヒ監督の名作「ディア・ピョンヤン」と「愛しきソナ」のデジタル・リマスタリングのためのクラウドファンデイングが始まっています。
https://motion-gallery.net/projects/yangyonghi777
ヤン ヨンヒ監督プロフィール
大阪出身のコリアン2世。米国NYニュースクール大学大学院メディア・スタディーズ修士号取得。高校教師、劇団活動、ラジオパーソナリティ等を経て、1995年より映像の世界に。ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』(05)は、ベルリン国際映画祭・最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)、サンダンス映画祭・審査員特別賞ほか、各国の映画祭で多数受賞し、日本と韓国で劇場公開。自身の姪の成長を描いた『愛しきソナ』(09)は、ベルリン国際映画祭、Hot Docsカナディアン国際ドキュメンタリー映画祭ほか多くの招待を受け、日本と韓国で劇場公開。脚本・監督を務めた初の劇映画『かぞくのくに』(2012)はベルリン国際映画祭・国際アートシアター連盟賞(CICAE賞)ほか海外映画祭で多数受賞。さらに、ブルーリボン賞作品賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン1位、読売文学賞戯曲・シナリオ賞等、国内でも多くの賞に輝いた。著書にノンフィクション「兄 かぞくのくに」(12/小学館)、小説「朝鮮大学校物語」(18/KADOKAWA)ほか。