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世界的音楽家と結婚した祐子グルダさん ウィーンで奏でるピアノと平和活動の日々

奥村盛人映画監督

半世紀前に単身渡欧し、世界的ピアニスト、フリードリヒ・グルダの妻になった祐子グルダ(73)。自らもジャズピアニストとして作曲や演奏を行い、平和活動にも力を注いだ祐子の人生を紐解く。

<グルダとの出会い>
 太平洋戦争終戦前の1945年3月18日、祐子は自宅のミシンの下で産声を上げた。住んでいた東京は連日空襲に襲われていたが、その日は空が晴れ渡り雲一つなかったという。「これは天佑」だと考えた両親は娘に祐子と名付けた。祐子の父はなんと明治40年(1907年)頃に10代前半で単身アメリカに渡り大学を卒業。40代で日本に帰国してホテルの支配人を務めたという「進歩人」だった。その父が音楽に造詣が深く、祐子は姉たちとともに幼少期からピアノを習い始める。高校、大学とピアノ科へ進み、卒業後もレッスンを続ける「ピアノ漬け」の日々を送っていた。

 1967年、当時既に世界的な評価を受けていたオーストリア人のピアニスト、フリードリヒ・グルダが日本ツアーのために初来日した。祐子は恩師から「グルダのモーツアルトを聴きなさい」と熱心に勧められ、都内で行われたテレビ収録の見学へ。演奏の休憩時間、祐子と友人に目を留めたグルダが「お茶でもいかが」と声を掛ける。父の影響である程度英語が話せた祐子。ピアノ学生なのだと自己紹介すると「じゃあ弾いて見せて」と収録現場に連れて行かれた。結局、調律師からストップが掛かってその場では弾けなかったが、グルダは滞在中のオーストリア大使館にレッスンに来るよう勧め、祐子は連日巨匠からレッスンを受けることになった。

<渡欧、出産 そして離婚>
 グルダとは年齢が15歳も離れていたが、それ以上に当時の祐子にとっては見た目が「おじいちゃんみたい」。恋愛感情はなくただピアノを学び、レッスン後に誘われる食事や酒席でもグルダの話に聞き入った。一方のグルダは祐子に心を奪われたようで、日本ツアーが終わって次のアメリカツアーへ旅立つ日、祐子に「一緒に来てくれないか」とアプローチ。祐子は困惑したが、そもそも当時はパスポートもビザも持っていない。物理的に無理だと分かったグルダはアメリカツアーをキャンセルしてしまう。「その頃は好きとかじゃなくて引力みたいに抗えない感覚だった」。出会いから半年後、祐子は当時グルダが住んでいたスイスへ単身渡航した。

 グルダは常に祐子と行動をともにし、レコードの録音にも彼女を付き添わせた。ベートーベンのピアノソナタ全集の録音を一ヶ月にわたって聞いていた祐子は、グルダのあまりの才能に驚いて畏敬の念や愛情を感じるようになる。恋仲になった2人はやがて息子リコを授かる。当時祐子は23歳で「若くて母になる準備が出来ていなかった」といい、当初は結婚を拒否してしまう。その後、グルダと籍を入れたものの結婚生活は10年足らずで幕。「1人でピアノを弾きたくてもグルダがいつの間にか後ろで見てたりね。とにかく私と離れられない人だったから」。グルダにとって愛ゆえの行動とはいえ祐子は自由な時間を欲し、幼い息子と2人で暮らすことを選択した。

 クラシックのピアニストでありながらジャズにも本格的に挑戦したグルダ。ディジー・ガレスピーやチック・コリアなどジャズマンとの交流も多く、祐子もジャズや即興演奏に惹かれた。離婚してからの祐子は子育てに奔走しながら、住んでいたドイツを中心にヨーロッパでジャズライブを続けた。子育てが一段落するとウィーンに移住。当時のウィーンには寿司が食べられる店はなく、祐子は友人らと寿司店を経営。文化人や在留邦人など様々な人が訪れる中、店には募金箱を設置することも。祐子はグルダとの結婚生活中にもベトナム戦争で困っている子どもたちのため、募金箱を持ってグルダのツアーに帯同し世界中で募金を集めた。根底には日本を出てはじめて感じた「アジアの一員」という感覚があった。

<グルダの死と3.11>
 今も祐子はグルダの事を「主人」と呼ぶ。グルダは「いつまでも君は私の妻で、私は君の夫だ」と離婚の際に宣言。離婚後はお互いに交際相手を隠すことはなく、グルダはいつも「一緒に歳を取ろう」と祐子に話していた。ところが2000年1月、グルダが死去。祐子は「先に死ぬなんてずるい」と死を受け入れられずにいた。友人に勧められて感情をノートに綴るようになる。そのノートを見返してもらうと、そこにはグルダへの愛や後悔が殴り書きで綴られていた。大切な人の死を乗り越えることがいかに難しいか、祐子の背中が語っていた。グルダの死後、ひょんなきっかけからウィーン市内の寺院で開かれている原爆慰霊祭でピアノを弾くことになった祐子。慰霊祭の参加者から「どうせなら国連で訴えればいい」と勧められた。

 忘れられないグルダとの会話がある。「どうして日本に二度も原爆が落とされたんだろう。ドイツには落としていないのに。これは人種差別なんだよ」。日本を出たばかりの祐子はそんな考えを持ったことがなく、衝撃を受けた。それから数十年後、祐子は世界の人が原爆について考える「原爆の日」制定を目指して国連に働きかけをはじめる。イベントやインターネットで署名を集め、運動をはじめて数年、実現までもう一息という所まできていた。そんなタイミングで2011年3月11日を迎える。

 東日本大震災とその後の福島第一原発事故は、ヨーロッパでも衝撃的に報じられた。祐子が活動していた国連ウィーン事務所も異様な雰囲気に包まれたという。長年、イベントに理解を示して協力してくれていたNGO職員は「国連の中でイベントをしては駄目だ」と中止を迫り、政府関係者とのミーティングも「今は無理」とキャンセルされた。それまで口では「協力する」と言っていた人たちも祐子と距離を置くようになる。もちろん国連側からの中止要請はなかったが、日本人でもないのに誰もが忖度(そんたく)していた。発憤した祐子は震災の年も中断することなくイベントを開催。その後も2017年まで毎年8月に原爆の悲劇と核の非拡散を訴えてきたが、体力の衰えなどから身を引くことにした。

<友達はバッハ 「主体性なく」生きる>
 現在73歳の祐子。見た目は若いが頻繁に転倒して骨折するなど難儀な生活を送っている。それでも「先のことは考えずに今を受け入れて生きていますから」と沈痛さはない。今は「お友達」だというバッハの曲を練習する日々だ。それにしても半世紀前に単身渡欧し、海外で1人子育て。店を経営してコンサートまで行う、そのバイタリティはどこから来るのか。「私には熱意とかないわよ。主体性がないから言われたままに行動しちゃうのね」。思わず笑ってしまうほど軽やかな答えが返ってきた。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援で制作されました】

クレジット

監督・撮影・編集 奥村盛人
プロデューサー  一原知之

映画監督

1978年岡山県生まれ。2001年から高知新聞社で8年間記者生活を送る。新聞社を退社して映画美学校で映画制作の基礎を学ぶ傍ら、35ミリフィルム撮影の現場も経験。初監督作「月の下まで」(監督・脚本)がSKIPシティ国際Dシネマ映画祭などにノミネートされ、2013年から全国で劇場公開される。2016年から早稲田大学ジャーナリズム研究所に所属し、ドキュメンタリー映画「魚影の夢」(劇場未公開)を監督・撮影。2017年から拠点をヨーロッパに移し創作活動を続けている。2013年から高知県観光特使。

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