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「保守のジャンヌ・ダルク」はどこで地雷を踏んだのか?

橘玲作家
(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

自民党に所属する保守派の女性議員が雑誌への寄稿で、「LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)」に対し、「彼ら彼女らは子供をつくらない、つまり「生産性」がないのです」と述べたことが激しい批判にさらされています。

これまでこのコラムで何回か、「世界の価値観はリベラル化しており、日本も半周遅れで追随している」と書きました。しかし今回の事件は、日本の「右傾化」を象徴しているのではないでしょうか。

その後の展開を見るかぎり、じつはそうともいえません。

「中国」や「韓国」、「リベラル」には過剰なくらいの批判(しばしば罵詈雑言)をしている右派論壇のひとたちは、この件については奇妙なことにみな沈黙を守っています。私が目にした唯一の「擁護」は「新しい歴史教科書をつくる会」創設メンバーの一人である藤岡信勝氏によるもので、「「『生産性』という言葉は(中略)引用符が施されており、(中略)誤読に基づく冤罪というべきものだ」でした。慰安婦問題などでこの女性政治家を「保守のジャンヌ・ダルク」と持ち上げていたひとたちは、いったいどこにいってしまったのでしょう。

自民党内にも彼女の主張を擁護する声はほとんどなく、9月の総裁選で安倍首相のライバルである石破茂氏や野田聖子氏ははっきり批判していますし、「人それぞれ政治的立場、色んな人生観もある」と庇った二階俊博幹事長も、同じ会見で「多様性を受け入れる社会の実現を図ることが大事」と述べています。それぞれニュアンスの差はありますが、保守派議員のなかでも四面楚歌になっていることは間違いありません。

この女性政治家は母子家庭や生活保護を「自己責任」と批判してもいましたが、驚いたことに今回の問題ではいっさいの説明を拒絶しています。自らの意見を開陳するのは思想・表現の自由でしょうが、国会議員は多額の税金を受領しているのですから、一般人はもちろん言論人と比べても重い説明責任を負っています。それを放棄するのでは、「弱い者には厳しく自分に甘い」といわれてもしかたないでしょう。

私の考えでは、世界は「リベラル化」と同時に「アイデンティティ化」しており、日本ではそれが「日本人」という脆弱なアイデンティティを守ろうとするかたちで表われます。これが「日本」を攻撃する(と思われている)者たちへの強い反発(嫌韓・反中、朝日ぎらい)になるのですが、逆にいえば「日本」に関係ないことはリベラルでかまわないのです。

「ネトウヨ」と呼ばれるひとたちは、「反日」だけでなく、「フェミニズム」「夫婦別姓」「LGBT」はたまた「ベビーカー」までさまざまな“弱者利権”を攻撃しますが、じつはこうしたテーマはリベラル化が進むなかで大衆的な支持を得ることができなくなっています。「すべてのひとが平等に、もって生まれた可能性を最大化できる社会を目指すべきだ」という意味でのリベラルを否定し、前近代的な日本の「伝統」を称揚するひとは右派論壇や保守派の政治家でもどんどん減っています。

ところが件の女性政治家は、「ネトウヨ」的な主張をすればするほど「ジャンヌ・ダルク」ともてはやされると思ったのでしょう。この勘違いで地雷を踏み、バッシングするつもりがバッシングの標的になってしまったのです。

参考:朝日新聞2018年7月27日「杉田氏「生産性」発言に広がる批判 自民党本部前で抗議」

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作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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