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“赤い風船”が近宇宙を支配する日

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
軍戦闘機に撃墜された中国の偵察気球(写真:ロイター/アフロ)

 レッド・ツェッペリン――中国の偵察気球のことを、米国のある安全保障専門家はこんなニックネームで呼んだ。伝説の英ロックバンド、レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)かと思いきや、綴りを確かめると「Red Zeppelin」。つまり赤(中国共産党)のツェッペリン(ドイツの飛行船)ということだ。昭和歌謡風に言えば、浅田美代子さんの「赤い風船」か。

 米国を中心に騒動になっている気球であるが、宇宙空間に近い場所の話であるため情報は限られ、わからないことが多すぎる。「近宇宙(ニアスペース)」という手触り感のない用語、「新たな戦場」というおどろおどろしい表現、「毎日、大量に放球されている」という脅威を薄めるかのような情報……。軍事機密が絡む問題であるがゆえ、“空中戦”が続くしかないのか。

トランプ前米大統領
トランプ前米大統領写真:ロイター/アフロ

◇トランプ氏や保守系タブロイド紙の“助言”

 米上空での気球出現は今回が初めてではない。トランプ前政権時代を含め、過去数年にわたり観察されてきたという。米国務省は今月9日、中国がこれまで米国を含む40カ国以上の領空に偵察気球を飛来させているとの分析を明らかにしている。なのに、なぜ今回に限って表沙汰になり、大騒ぎにつながったのか。

 米紙ニューヨーク・タイムズ(NYT)によると、米西部モンタナ州ビリングスの地元紙ビリングス・ガゼットの写真記者が今月1日、上空に浮かぶ白い球体を撮影した。当時、本人は何を撮ったのかわからなかったという。

 気球は1月28日にアラスカ州アリューシャン列島の上空に侵入した。いったんカナダ空域に入り、31日に再び米北西部アイダホ州の上空に現れ、2月1日にはモンタナ州上空に達した。

 米ブルームバーグ通信によると、この時点でバイデン米大統領は気球に関する報告を受け、対応を検討していた。ただ目撃情報は公表しないということは決められていたという。

 ところが、ビリングス・ガゼットが2日、気球の写真を掲載したことで全米が大騒ぎなり、「中国のものらしい」「スパイ気球」「大陸間弾道ミサイル(ICBM)を運用するマルムストロム空軍基地のあるモンタナ州上空」というキーワードがメディアをにぎわせた。

 中国政府が「気球がコースを外れ、偶然に米領空に入った」「遺憾に思う」「気球の目的は気候研究」と釈明しても「中国の公式説明は、航空スパイの言い訳として使い古されたもの」(米政府高官)などと一蹴された。米国内の強硬ムードに合わせるように、右派の政治家やメディアの声が大きくなり、トランプ前大統領は3日、自身が立ち上げたソーシャルメディア「トゥルース・ソーシャル」で「気球を撃墜せよ」と叫び、保守系タブロイド紙ニューヨーク・ポストも4日付1面で「この気球を割れ!」と要求した。

 ブリンケン国務長官は予定していた中国訪問を延期した。そして4日、トランプ氏や保守系タブロイド紙の“助言”に耳を傾けるかのように、米空軍の戦闘機はサウスカロライナ州沖で気球を撃墜した。

回収された中国偵察気球の残骸
回収された中国偵察気球の残骸提供:Petty Officer 1st Class Kris Lindstrom/U.S. Navy/ロイター/アフロ

◇「世界には多くの気球が飛んでいる」

 そもそも気球は差し迫った軍事的脅威だったのか。この問いかけに対し、米国側の当局者は多くを開示しなかった。インテリジェンスにかかわる事項であるため、収集・分析した情報の一つ一つについて網羅的に答えることは、情報収集能力などが明らかになるため差し控える――という回答にならざるを得ない。

 それゆえ、気球の出現にメディアは大騒ぎせざるを得なくなった。中国を専門に取り扱う独立系メディア「The China Project」のジェレミー・ゴールドコーン(Jeremy Goldkorn)編集長は自身のツイッターで次のように解説している。「気球は米国のケーブルテレビにとって完璧なストーリーといえる。中国から来たものであり、スパイカメラがついていて、熱風か笑気ガス(happy gas)に満たされている。これが何日も続くのだ」

 NYTによると、オバマ政権時代に外交政策担当スピーチライターを務めたベン・ローズ氏は「この気球に対する米国の政治とメディアの反応は、中国に対する今後数年間の合理的な意思決定にとって、良い兆候とは言えない」と懸念を示している。

 米国側の世論に中国側は強く反発した。中国で外交を統括する王毅(Wang Yi)共産党政治局委員は今月18日、独ミュンヘンで開かれた国際会議で、気球撃墜について「世界には多くの気球が飛んでいる。米軍はそのすべてを撃ち落とすのか」「(米国の対応は)ヒステリックで力の乱用だ」と非難した。

 国連の世界気象機関(WMO)は17日の段階で、気象観測用気球についての見解を発表し、「天気予報や気候の監視を支える全球観測システムの重要な一翼」「約1000個の気象観測用の気球を含む宇宙や空、海、陸などからの数百万に及ぶ観測が進められている」と明らかにした。この発表を報じた香港の有力英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)は「世界中のさまざまな場所から毎日同時に放球されている」と補足し、中国側の「脅威ではない」という主張を後押しした。

中国人民解放軍機関紙「解放軍報」の2018年3月30日付紙面キャプチャー
中国人民解放軍機関紙「解放軍報」の2018年3月30日付紙面キャプチャー

◇「近宇宙も現代戦の新たな戦場」

 NYTによると、気球騒動でにわかに注目を浴びている「近宇宙」は▽国際法が適用されない▽どの国の軍事力も優位に立っていない▽音速の5倍にあたるマッハ5以上の「極超音速」で飛行する兵器が飛んでいる▽監視気球がレーダーに拾われずに漂っている――空間だそうだ。「宇宙ではとらえることができない通信を傍受できる。ターゲットの上空を長時間うろついて、敵のレーダーを研究したり妨害したりできる。敵の衛星を標的にして戦略兵器を誘導するということに役立てることができる」。トランプ政権時代に大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)を務めたポッティンジャー氏がNYTに語った言葉だ。

 今回の気球に関する情報を総合すると、中国は「近宇宙」で先進的な活動を続け、それに米国が焦燥感を覚えている――という状況にあるのは間違いない。

 中国人民解放軍機関紙「解放軍報」は2018年3月30日付紙面で「現代のハイテク技術の急速な発展により、情報で敵対する空間は、もはや陸・海・低空に限られるわけではない。近宇宙も現代戦の新たな戦場となり、国家安全保障システムの重要な一部となった」との認識を示している。2019年には「近宇宙プロジェクト」を明らかにし、飛行船を高度20,000mでアジアからアフリカ、北米、太平洋まで飛ばしていた。

 一方、米国側は軍や情報機関が宇宙関連予算を使って衛星のように遠く離れた宇宙空間に資産を展開してきたため、「米政府はそのゾーンにあまり注意を払ってこなかった」(政府関係者)そうだ。その結果、米国は近宇宙での情報収集・防衛能力で劣勢に立たされているという。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

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