建築家・山本理顕が大学の学長を辞めさせられ、裁判に訴え、設計料を取り戻し、また復帰しようとするまで
建築家・山本理顕(りけん)。
建築に携わり、建築を学んだことがあれば、その名を知らない人は少ないだろう。
設計を手掛けた「横須賀美術館」や「埼玉県立大学」といった代表作はもちろん、建築家の地位向上や設計者選定の制度確立などのためには訴訟も辞さないほど徹底的に闘うことで知られる。
そんな山本が名古屋で学校法人を相手に2年余りに渡る裁判を争い、未払いだった設計料約5400万円を取り戻す裁判で昨年10月に勝訴。事実上解任させられた学長職の地位を巡る裁判では昨年末に和解に至り、再び学長に復帰できる見通しとなった。
「大学教育の危機と、建築家の役割や職能性を考えたときに、問題提起せざるを得なかった」という山本は、裁判を通じて何を訴えようとしたのか。その顛末をまとめた。(文中敬称略)
名古屋の学校法人が新キャンパスの設計と学長就任を依頼
山本は1945年、中国・北京生まれ。東京藝術大学大学院や東京大学生産技術研究所で建築を学んだ後、建築家として独立。横浜市の事務所(山本理顕設計工場)を拠点に78歳の今も国内外で多くの建築設計を手掛けている。
今回、山本の訴訟相手となったのは名古屋市の学校法人「同朋学園」。仏教系の同朋大学や同朋高校を名古屋市中村区に構えるほか、芸術系の大学として名古屋音楽大学、名古屋造形大学を運営している。
山本によれば、2016年に愛知県小牧市にあった名古屋造形大学で講演したのがきっかけで、学園側から名古屋市北区に移転する構想があった新キャンパス(名城公園キャンパス)の設計を依頼された。
そのコンセプトを考えているさなか、当時の学園理事長の甲村和博と造形大学長の小林亮介が横浜の山本の事務所を訪れ、2018年度末で任期が終わる小林の後を引き継いで造形大学長になってほしいと山本に頼んだ。
山本は海外で大きな仕事が進行していたため一度は断ったが、何度も頼まれたため学園側に3つほどの条件を示した。1つはキャンパスの設計と同時に学問領域を再編する大学改革もすること。2つめは大学の業務管理をする秘書(最終的には副学長)を付けること。3つめは教授にもなってほしいと頼まれたため、学生たちの指導もすること。
学園側はその条件を受け入れ、理事会での面接を経て2018年4月、山本は造形大学の学長と教授、並びに学園の理事に就任した。
その年の12月には新キャンパスの用地が正式に取得され、翌19年8月には学園が山本と新キャンパスの設計監理業務契約を締結。以来、山本は学長職と並行して新キャンパスの設計を進めた。それは山本が描いた大学改革を具体化する、オープンでクリエイティブな教育の場となるはずだった。
ところが、コロナ禍が2年目に入った2021年の年明けから、学園と山本の関係が大きく崩れ始める。
寝耳に水だった名古屋競馬場跡地利用コンペへの参加
学園の中核である同朋大学長の松田正久から、山本に電話が入った。「学園が名古屋競馬場の跡地利用のコンペに参加するので、理事会で反対しないでほしい」との趣旨だった。
名古屋競馬場は愛知県や名古屋市による愛知県競馬組合が所有する名古屋市港区の約20ヘクタールの土地。戦後から公営競馬が運営されてきたが、2022年に県西部の弥富市に移転することが決まった。県・市は跡地を2026年に地元開催するアジア競技大会の選手村に利用する前提で再開発するため、民間の開発事業者を公募。その応募グループの一つに同朋学園が参画し、公募型プロポーザル方式の審査(コンペ)で選定されれば同朋大学のキャンパスを移転するという計画だった。
公募は既に始まっており、3月には提案書類一式を出さなくてはならない。山本にとっては寝耳に水の話。学長を任された造形大学には直接関係ないが、こうした街づくりは山本の専門の一つだ。
山本は既に公表されていたコンペの募集要項などを読み込んだ。その結果、跡地は競馬場こそ移転するものの、場外馬券売り場が新設されることが分かった。その位置や形状は初期条件で変えられない。つまり大学が馬券売り場の隣に移転しようとしている。さらに調べると、敷地は港に近いため、津波災害や土壌汚染のリスクも高い。
「こんなところに大学用地があっていいのか。都市計画的にもあり得ない」
山本は現地も訪れた上でそう確信し、理事会でコンペ参加の計画に反対の意思を示すことにした。
学園理事会で反対意思示すも賛成多数で参加決まる
だが、学園理事長の甲村や同朋大学長の松田は参加を前提に話を進める。学園が参画しようとする事業者グループは中部電力が代表企業で、山本が松田からの電話を受けた日の翌日には、学園から中電に「参加表明書」が一式送付されていた。
2021年2月19日の学園理事会でコンペ応募の事業計画が議題に上り、翌月12日の理事会では山本が真っ向から反対意見を唱え、甲村との間で言い合いが「ヒートアップ」(学園関係者)するほど紛糾した。しかし、結果的に3月23日の理事会で事業計画に対する採決が取られ、賛成11、反対7で可決された。
納得できない山本はこのコンペの前提条件そのものに問題があるとして、県と市に対して計画の具体的な目的や近隣住民への説明の有無などを問いただす「公開質問書」を6月に送った。だが、1カ月が過ぎても県・市から回答はなかったため、7月に名古屋市政記者クラブで単独の記者会見を開き、計画の見直しを訴えた。
この間の6月24日には事業コンペの審査が終わり、同朋学園を含む中部電力グループが最優秀提案者(契約候補事業者)に決定。ふたを開ければ応募は2者で、中電グループ以外のもう1者は「事業計画の実現性」という評価項目で募集要項が定める配点の5割(40点満点中の20点)に届かなかったため失格という結果だった。山本はこうした選定方法も不透明だと指摘し始める。
学園側が山本の学長職停止の処分、山本は提訴へ
一連の山本の動きは、学園側の態度をますます硬化させた。
山本の記者会見の様子が新聞記事になると、学園は山本に「顛末書」の提出を求める。
さらに8月3日、学園は常任理事会を開き、山本の学長職を停止することを満場一致で決議。山本に「辞令(懲戒)」と題する通知を郵送した。その内容は県・市への公開質問書の送付や記者会見の実施が「学園の立場を考慮しない自己本位・自己中心的な考えに基づくもので、忠実義務に違反した行為」であるという理由で、学長職をはじめ理事・教授職を8月13日から6カ月間停止し、期間中は「学園諸施設内への立ち入りは認めず、給与は支給しない」とする厳しい処分だった。
山本はこれに応戦する。
質問書の送付や記者会見は「建築・都市計画の専門家として県・市に問題提起をしたもので、学園の名誉や信用を毀損するものではなかった」などとした上で、懲戒処分の発令で重大な経済的損害と精神的苦痛を受けたと主張。学園を相手取って9月13日、懲戒処分の無効確認と停職によって支払いが取りやめとなった給与や慰謝料など計約4000万円の支払いを求めて横浜地裁(後に管轄は名古屋地裁へ移る)に提訴した。
実はこの時点で、山本が設計を担当した名古屋造形大学の新キャンパスは着工から1年4カ月が経過し、形が出来上がりつつあった。
自らが設計した建築への立ち入りを禁止される異常事態に
設計監理を任されていた山本は着工後も現場に足を運び、工事の状況をチェックしていた。設計から現場監理、そして完成後のメンテナンスまでを建築家が責任を持って携わることこそ山本の理想とする建築家像であり、その責任範囲をあいまいにするような発注方式やコンペの形式に異を唱えてきたのが山本自身だった。
にもかかわらず、山本は学園から現場への立ち入りを拒否された。学長職の停職期間は当初の任期満了日である2022年3月末まで延長され、山本は実質解任させられた。新キャンパスは同年2月に竣工式を迎えたが、山本は自身の設計した建物に竣工後も立ち入れないという異常事態が続く。
それだけでなく、山本は業務完了時に支払われるべき報酬5400万円を受け取れなかった。
学園側が建物完成後、体育館の床材の色が指定と違ったり、らせん階段の手すりの間隔が広くて危険だったりするなどと、山本側の瑕疵(かし)を指摘。それらが改善されない限り、報酬を支払わないと主張してきたのだ。
山本はこちらの件でも学園を相手取り、報酬支払いを求めて2022年7月、名古屋地裁に提訴した。この訴訟は1年余りの審理の末、2023年10月に裁判所側が山本の主張を全面的に認め、学園に5400万円を支払うよう命じる判決が出された。
「コンペ公募期間中に知事と学園関係者が会食」も波紋
一方、地位確認の裁判でも学園側の混迷ぶりがあらわになった。
学園はコンペ終了後の2021年7月と8月、計画地からの場外馬券売り場の移設などを愛知県知事の大村秀章に直接求めた。
当時の理事長だった甲村は、裁判の証人尋問で「場外馬券場そのものは教育施設の隣にあっていいものではないと思っていた」と述べた。
しかし、大村からは条件は変えられないと一蹴され、最終的に学園として計画からの撤退を決断。2021年12月、中電グループから同朋学園が抜ける「構成員変更」の申し出が県・市に承認された。
一連の経緯について甲村は「(山本の)反対活動が影響した」と恨み節を述べた。
もう一つ、波紋を呼んだのはコンペ公募期間中の「会食」だ。
2020年10月19日、名古屋市内の飲食店で学園の甲村、松田、山本、名古屋音楽大学長の佐藤恵子、そして知事の大村と愛知県議の寺西むつみの6人が会食をした。
甲村によれば、これは「名古屋造形大学の開業記念式典への出席を知事に依頼するため」に寺西を通じて実現した会合だった。
ただし、この1週間前の10月12日には名古屋競馬場跡地利用コンペの募集要項が公表されている。
山本はこのことに後から気付き、コンペ応募者が「募集要項公表後から契約候補事業者決定までの間、評価委員等と本事業に関して故意に接触したと認められた場合は失格となる」という募集要項に抵触する怖れを抱いた。「評価委員等」には当然、最終決定者である知事も含まれるとの解釈からだ。
知事は「公務でない」 県議は「コンペの話出ず」と説明
実は、同朋大学は以前から新たなグラウンド用地を探していた。大学野球部に専用のグラウンドがないためだ。山本は10月19日の会食で、学長の松田が知事と野球グラウンドについて話をしていたことを覚えていた。
その後のコンペの提案には大学ゾーンに野球グラウンドのイメージが描き込まれている。
山本は、この日の会食が「コンペの募集期間中に知事に大学の移転計画への配慮を陳情する」形になってしまったと認識。コンペのあり方について人一倍提言をしてきた自分が「自らルール違反を容認する」ことになり、建築家としての名誉や信用、尊厳を深く傷付けられたとの主張を裁判の訴状にも盛り込んだ。
これに対し、甲村はそもそもこの時点ではコンペの事業計画の存在すら知らなかったとして「会食と事業計画はまったく関係がない」と反論。松田も「会食では知事が野球好きという話が出て、その流れで私が野球部は専用グラウンドを持っていないのに過去にはプロ野球選手を輩出するぐらい頑張っているという話をした」だけだと弁明した。
この会食について、大村は県秘書課を通じて「(知事としての)公務ではなかった」とした上で「詳細は寺西県議に質問を」と回答した。
その寺西は、同朋学園本部のある中村区を地盤とする県議として会食の場を設けたことは認め、「席上、知事から愛知県全般についての話があり、その後に学園側から名城公園に新しいキャンパスを移転する予定なので、開校式典にぜひ出席をとの依頼があった。名古屋競馬場跡地利用コンペについての話題は出なかったと記憶している」と説明。また、会食の費用は「会費制だったと記憶している」と答えた。
当時の評価委員の一人に尋ねると、この会食の件については「まったく知らない」と明かした。別の委員は守秘義務があって答えられないとした上で「審査は極めて公正に行われた」と主張した。ただ、少なくともこの会食が適切だったのかどうかについて、公の議論や判断はされていないとは指摘できる。
競馬場跡地についてはその後、アジア大会の選手村としての整備が経費削減などのため中止となった。最大の前提条件が崩れる中でも、再開発計画は同朋学園を除いた当初の中電グループによって進められている。
「奪われた7カ月半を取り戻し、これからも声を上げる」
裁判では昨年10月の最終弁論の時点で「山本氏の独善的な一連の非違行為は学園に対する信頼を著しく毀損し、中電グループの一員としての立場を維持していくのを困難にさせ、学内外に多大な混乱を生じさせる重大な非違行為だった」などと主張していた学園側だったが、12月26日付で一転、和解が成立。山本に対する「懲戒処分をいずれも撤回する」ことが合意された。
これについて学園側にコメントを求めたが「お答えできることはない」という。学園は昨年3月末で任期満了を迎えた甲村が理事長を退き、山本の後に名古屋造形大学長となった伊藤豊嗣が理事長も務めている。
一方の山本。「台湾の美術館の設計などが佳境で、正直この問題にいちいち時間を取られたくはない」としながら「造形大学の現場では設備的な不具合も出ているというので対応しなければならない。学長や教授としても(懲戒処分の出た2021年8月中旬から22年3月末までの)奪われた7カ月半という時間を取り戻して、まず学生に挨拶や指導をしたい」と話す。ただし、職務復帰について学園側とはまだ具体的な連絡や調整は一切していないという。
「今の大学は経営や利潤優先の理事会の力が強くなり、それを文科省が肯定している。私はそうした大学運営の欠陥を指摘したつもりで、今回の結果はそれが覆る大きな意味があった」と山本は裁判の意義を振り返る。
これまでにも群馬県邑楽町の新庁舎建設を巡り、町長の交代をきっかけに山本の設計案が破棄されたとして町を訴え、和解に至ったケースがある。建築家にとって裁判にまで訴えることはさまざまなリスクがあるはずだ。なぜそこまでするのかという問いに、山本はこう答える。
「建築家は誰のために働くのか。公共施設なら地域社会の住民のため。大学ならキャンパスを利用する学生や教授のためだ。建築を使う人が損害を被るなら、それはおかしいと声を上げるのが建築家としての私の使命だ。今はそれを忘れて、直接お金を出すクライアントのために働く建築家ばかりになってしまっている」
山本の問題提起は、建築や街や社会を、どこまで変えていくだろうか。