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時は流れて――20年目の「ドーハの悲劇」と「サッカーマガジン」

川端康生フリーライター

1993年10月28日深夜

あの夜の記憶はいまも鮮明だ。

一緒にいたのは高校時代の友人と当時付き合っていたカノジョ(あの予選はだいたいこの顔ぶれで僕のアパートに集まって見ていた)。

コタツを囲むように座った僕らの前には28インチのブラウン管テレビがあって、そのテレビの斜め上にある腰高窓からは旗竿が突き出されていた。日本代表のフラッグを道路に向けて掲げていたのだ。

いつもはけたたましいテレビが沈黙したのは日付が変わった頃だった。実況の久保田アナと解説の前田さんが絶句し、沈黙はカタールからの衛星中継が東京のスタジオに切り換わっても続いていた。

やがて絞り出すようにアナウンサーの金子さんが何かを尋ね、それでも柱谷のお兄さんはうつむいたままで、辛うじて元代表監督の森さんがやっぱり絞り出すように何かを答え……。

僕らも沈黙していた。

やがて友人が立ち上がって(たぶん「それじゃ」とか何とか、特に意味もない挨拶だけして)部屋を出て行き、残ったカノジョも何か声をかけたそうにしていたが、僕はとりつくしまがなく、ただただ無言の、居心地の悪い時間が流れていた。

少しして部屋の電話(もちろん固定電話)が鳴った。一次予選のUAE戦を国立競技場で一緒に見た友人からだった。

驚いたことに(そういうタイプではなかったのに)彼は泣いていた。泣きながら、ただ「悔しい」と何度も繰り返していた。

1993年10月28日深夜の記憶である。

「悔しいなあ、悔しいなあ」と繰り返していた友人の声色をいまも覚えている。そんな友人からの電話を、やっぱりほとんど無言で切った後、僕は窓に掲げていた日本代表のフラッグをそそくさと片付けたのだ。

友人の絞り出す「悔しい」という言葉を聞いているうちに気づいたことがあったからだ。僕自身の、悔しさの在り処がはっきりとわかったのだ。

それから何年か経って、僕はこんな原稿を書いた。

4年後、ジョホールバルで

<……あの予選をテレビで見ていた僕はピッチに倒れ込む選手たちを涙目で凝視しながら、二つの悔しさでいっぱいだった。負けた悔しさと、その場にいない悔しさ。だから心に誓った。この次は必ず現場にいると。

夢を勝ち取るための日本サッカーのリチャレンジが始まった。届かなかった数秒に手を伸ばすために選手たちがグランドで戦う姿を見ながら、僕も自分のフィールドで励み続けた。

そして、97年11月16日、歓喜弾ける。ジョホールバルで、ついに夢は実現したのだ。予選全試合に帯同し、選手とともに、4年間のすべての思いを込めて。……>

僕は“ドーハの悲劇”に間に合わなかったライターである。いわば“Jリーグ世代”の書き手。

この業界において「ドーハを取材したかどうか」は「Jリーグ以前からサッカーを取材していたかどうか」とほぼ同意であり、それはたとえばライターとしての「格」のようなものとも結びつく記号のようなものだ。少なくとも当時はそうだった。

Jリーグ創設によってサッカーがあまりにも急激にブームアップしたからこそ、それ以前か、それ以後かが、サッカーとの関わりの(あるいはサッカーに対する知見や思い入れの)重軽を評価する物差しとなっていたのだ。

僕はそのことに異を唱えるつもりはない。当時もいまも、それは正しいことだと思う。

長く続けている、ということは「長い」という点で信頼感が増すし、「続けている」という点で尊敬に値する。

ましてサッカーのように“Jリーグ以前”と“Jリーグ以後”でいろんな意味での環境(社会的だったり、経済的だったり)が激変した――つまり“以前”には社会的にも経済的にも“小さな”存在だった業界においては、特にそうだ。

その意味で、ドーハの悲劇に間に合わず、Jリーグ以後の書き手である僕は、格下であり、信頼度も乏しくて当然だったと思う。

それでも(抜粋したコラムにあるように)あの夜の「悔しさ」からスタートした僕であっても、4年間励んだ末には「日本代表」を取材をすることができ(取材することを許され)、あの毎週末繰り返されたホーム&アウェーに全試合帯同することができ(それだけの経費を得ることができ)、歓喜を弾けさせることができた。

だから、1997年11月、ジョホールバルでの選手たちのガッツポーズは僕自身のガッツポーズでもあったし、日本サッカーのリベンジは僕自身のリベンジでもあった。歓喜の隣には充実感もあった。

「サッカーマガジン」!

実は前掲した拙稿は「サッカーマガジン」に掲載されたものである。1999年12月29日号。1年間続けさせてもらった連載コラムの最終回だった。

「サッカーマガジン」に初めて原稿を書かせてもらったのは1997年だった(ベルマーレ平塚について書いた)。

それまで「J・PRESS」とか「Jサッカーグランプリ」とか「2002倶楽部」とか「サッカーウィークリー」とか、そう“Jリーグ以後”の雑誌で仕事していた僕にとって、「サッカーマガジン」は別格の雑誌だった。

“Jリーグ以前”の(というよりサッカー界を代表する)雑誌に書くという緊張感と誇らしさ、何よりサッカーの書き手として“お墨付き”をもらったような気がして、とても嬉しかった。

そして“ジョホールバルの歓喜”の直後には「ワールドカップ初出場記念」の別冊に1ページのコラム(中田英寿について)を書かせてもらい(晴れがましかった)、99年には連載までさせてもらった。

いまにして思えば、“ドーハの悲劇”から4年が過ぎ、読者の中心も“Jリーグ以後”へとシフトしたあの頃は(編集長も千野さんから伊東さんに代わった)、ちょうど新たな書き手が求められていた時期だっただろう。

いずれにしても、おかげで僕はサッカーの書き手として自信をつかむことができたし、サッカーマスコミにおいて居場所を得ることもできた。

時は流れて

“ドーハの悲劇”から20年が過ぎた。

気がつけば“Jリーグ以前”からの書き手はもはや大ベテランで、(僕のような)Jリーグ創設時からのライターでさえベテラン扱いされるようになった。

さっき思いつくままに並べた“Jリーグ以後”の雑誌はどれもすでに存在しないし、名前を綴った諸先輩の中にはもう再会さえかなわない人も少なくない(20年前のあの夜、一緒に衛星中継を見つめた友人もカノジョもいまは消息さえ知らない)。

時は流れたのだ。

そして「サッカーマガジン」も今週、20年に及ぶ「週刊」の歴史を終えた。

結果的に“最後”の編集長となった北條くん(「くん」で申し訳ないが、いまさら呼び方を変えたくない)は、平塚からの東海道線に一緒に乗っていた仲間だった。あの頃、20代だった僕たちは50の声を聞く年齢になり、ベルマーレも「湘南」になった。

確かに時は流れたのだ(そういえば、あの頃はまだ東海道線でも煙草が吸えた)。

改めて日本サッカーを俯瞰すれば、“ドーハの悲劇”から“ジョホールバルの歓喜”までは、そしてJリーグの創設から2002年ワールドカップまでは、驚くほどに「夢を叶え続けた時代」だった。

「プロリーグの創設」と「ワールドカップへの出場」、それに「ワールドカップの開催」という3つの大きな夢が、短期間に叶い続けたこの時期は、奇跡のように幸福な時代だったのだと思う。

そこには敗北があり、だからこそ勝利の喜び(大きな!)があったし、悔しさがあり、だからこそ歓喜と充実も得られた。ジェットコースターのようにハイスピードでスリリングな、退屈やマンネリとは無縁の、希望と挑戦が常に目の前にあった刺激的な時代、「上げ底した感動」を叫ぶまでもなく、感動できた時代……。

だが、時は流れる。そして、いまの時代になった――。

時代は変われど

自分史と重ねながらダラダラと書き連ねてきてしまった。

時は流れ、時代は移ろい、サッカー界もサッカーマスコミも変わり……と油断するとセンチメンタルな気分に陥りそうになる。「あの頃はよかった」的な嘆息を漏らしそうにもなる。

マスコミ人としても、東海道線の車内で「サッカーマガジン」をめくっている人の姿を目にすることはなく(「ナンバー」だってめったにいない)、老若男女がスマホをいじる光景に、やっぱり溜息をつきたくもなる。時代が変わってしまったのだ、と。

けれど――思いとどまることができたのは週刊最終号に北條編集長の矜持を見たからだ。

読者への「お詫び」と題した一文で、彼はこうきっぱりと述べている。

<時代の変化は根本的な問題ではありません>。

「時代の変化」とは(この業界で言えば)たとえばインターネットの普及に伴うメディア環境の変化。昨今の出版不況の原因として誰もが口にするところだが、彼はそんなことを言い訳にはしなかった。

そして「週刊」が終わるのは、あくまでも「読者の方々が求めるもの」を届けられなかった自分の責任だと詫びていたのだ。

僕は「売れなくなったのは時代のせいではなく、読者を満足させる雑誌が作れなかったからだ」と明言した彼の潔さと責任感に、まず感動する。

週刊誌として1000余冊、創刊から数えれば1500冊を超える伝統誌を終わらせてしまう責任の大きさは、僕のようなフリーランスの想像を絶する。それでも原因を「時代」のせいにせず、「自分の力不足」と述べた彼の正直さに感動するのだ。

それだけではない。彼が述べているのは(言い換えれば)「面白い雑誌を作れば売れるはずだ」ということでもある。時代のせいであれ、自分の力不足であれ、とにかく部数を伸ばすことができず、事実上の休刊となった雑誌の編集長が、それでもなお「雑誌」と「読者」を、要するに「出版」を信じていることに感動し、共鳴するのだ。

そんな、いわば出版人としての矜持とでもいうようなものに触れて、感動し、共鳴し、回顧主義に逃げ出しそうな自分自身を踏みとどまらせることにもなった。

思いの外に長文になった(スペースが決められている紙媒体ではありえないことだ)。

とにかく、時は流れ、時代は変わった。メディアを取り巻く環境も確かに変わった。

しかし、面白いものなら受け入れられる。「面白いもの=いいもの」かどうかはわからないが、とにかく「いいもの」を作ろうとし続けなければ出版に携わっている意味がない。時代の移り変わりを嘆き、そればかりか読者を見限ってしまったら、出版は死んでしまう。殺してしまうかどうかは、携わる者一人一人の心次第なのだ。

それは「雑誌」を「サッカー」に、「読者」を「ファン」に置き換えてもきっと同じだろう。

あの奇跡のような時代は過ぎた。いまやJリーグは日常で、ワールドカップ出場は当たり前だ。

それでも面白くて、いいサッカーを見せれば、ファンは必ず……。

「サッカー」と「ファン」を信じること――あれから20年後の「Jリーグ」が(たとえどんな改革をするにしても)決して手離してはならない矜持だと思う。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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