「私たちは生きたい、教師として生きたい」...‘クビ覚悟’で訴える韓国教育の担い手たち
韓国で7月から続いてきた現役教師たちによる必死の訴えが、社会を揺らしている。「教権(教師の権利、教育する権利)の保護、回復」という当初の枠組みを超え、学校とは何か、教育とは何かを根本的に問い直す機会となりつつある。教師たち自ら「一つの区切り」と位置づけた4日の集会を中心にまとめた。
●教師の切迫感
7月18日、ソウル市瑞草(ソチョ)区のある小学校の1年生の教室で、担任を受け持つA教師(24歳)が自ら命を絶った。
この知らせが伝わるや、ネットには「A教師が自死した理由」について様々な憶測、証言などが飛び交った。中には後に警察の捜査の過程で虚偽と判明したものもあったが、大まかには「生徒間のいさかいを収める過程で、保護者(韓国では学父母と表現)から強いストレスを受けたことが原因」というものだった。
いわゆる「モンスターペアレント」によるハラスメントということだったが、事態はこれに留まらなかった。社会にとって、現役教師が担当する教室で自死するというのは衝撃的な事件であったが、教師たちにとってはそうでなかったからだ。
A教師の事件後、いかに教師が限界に追い込まれているのかについての証言が、現役教師たちの口を通じ、相次いで発表された。
保護者からの無理難題、生徒からの暴行、教師一人に問題を解決させようとする公教育界の長年にわたる問題、加重な労働、そして学習塾が普及する中で学校教育の存在価値を問うものまで、教育現場が抱えてきた問題が一気に噴出した。
そして議論は「教権」をめぐるものに収斂されていった。日本では聞き慣れない言葉だが、狭義には「教師の権利」、より韓国的な脈絡では「教師たちが外部の干渉を受けずに生徒を教育する権利」と理解される。
上記のような事情により「教権」が侵害されており、教師は崖っぷちに立たされている。教師たちは「今が最後の機会」とばかりに街に出た。
A教師の事件が明らかになった直後から、ある教師が集会を呼びかけた。そして事故後の週末7月22日には早くも1万人の教師が集まった。
その後、主催者は匿名で入れ替わりながら週末ごとに集会は続き、参加者は増え続けた。直近の9月2日には20万人が国会前に集まる、文字通り社会現象となった。
●「13万字の評価」
筆者が参加した9月4日の集会は、A教師の四十九日にあたると共に『公教育を止める日』と命名された区切りの集会だった。ソウルの汝矣島(ヨイド)にある国会前で行われた。
その名の通り、平日のこの日に教師たちは自身の休暇を使い参加した。主催者側によると、国会前だけで5万人、全国で10万人が集まったという。
集会では公立幼稚園の先生から保護者と小学生、高校の先生などが壇上に上がり、「モンペ」だけではない、様々な教育現場での問題を訴えた。
小学4年生の生徒は「わたし以外にはみな学習塾に通い、先行学習(先取り学習)をしている。授業中に先生に対し面と向かって『つまらない』、『もう習った』と言う場面が、1年生から4年生になるまで繰り返されてきた。亡くなったA先生もこうした問題に悩まされていたのではないか」と教室の風景を語った。
また、昨年高校3年を受け持ったという先生は、「270人を受け持ったが、それぞれに500字の評価をしなければならなかった。それだけで13万字になる。また、それを書く過程で保護者からは『こう書いてくれ』と言われ、書いた内容については『なぜこう書いたのか』と言われ苦しんだ」と過剰な労働や批判にさらされる事情を明かした。
集会の参加者たちはさらに、国会に対し強いアピールを繰り返した。
「教権」を確立するための立法をめぐり議論が続く中、「30万人の教師の言うことを聞かず、いったい誰の言葉を聞くというのか」と主張すると共に、必ず9月内の法成立を成し遂げるよう、国会に届けとばかりに声を張り上げ要求した。
教師が置かれた状況は驚くほど深刻だ。
『韓国教育新聞』の記事によると、18年から23年6月までに自ら命を絶った教師は100人にのぼるという。この内70人は「原因不明」とされるが、教師の精神的ストレスの増加は明らかだとのことだ。
また5日、『全国教職員労働組合』と『緑色病院』は、幼稚園・小中高教師3505人を対象に行った実態調査の結果を発表したが、38.9%が重度の鬱症状を見せていると発表した。一般成人の4倍にあたる数値だ。
集会ではこんな今も苦しむ教師に対し、支援と支持を惜しまない旨も繰り返し語られた。そのたびに集会場は拍手で包まれた。
集会で何より印象的だったのは、司会者が述べた「私たちは生きたい、教師として生きたい」という言葉だった。人間としての尊厳と教師としての使命感の両立を目指す強い意志を感じた。
●「ソウル市内の教師の半数以上が参加」
この日の集会に、教師たちは並々ならぬ覚悟で参加していた。なぜなら、教育部(文部科学省に相当)は、集会に参加する場合には最悪「罷免(クビ)」もあると厳罰で臨むことを明確にしていたためだ。
これに関し筆者の知人にも教師が幾人かおり、筆者の子どもの一人も韓国の一般の公立校の小学生であるため、色々な事情を聞くことができた。
特定を避けるためにどこの誰、というのを伏せた上で書くと、ある教師は金曜日の一限の授業をこの問題の説明に割き、生徒たちに対し「なぜ先生は、クビを覚悟でこの集会に出なければならないのか」をパワーポイントファイルまで作り、丁寧に説明した。生徒たちは「生徒に殴られたことがある」という先生の言葉を、時に応援しながら聞き入っていたという。
また、ある教師の学年では、すべての先生が休暇を願い出て、4日午前にA教師が所属した小学校で行われた四十九日法要を訪れ、その後集会を共にしたという。韓国紙『中央日報』は5日の記事で「ソウル市内の教師の50〜90%が集会に参加した」としている。
少し私見を述べさせてもらうと、この日の集会は筆者にとっても実に特別なものとなった。7回目で初めて教師たちの集会を取材したが、こんなにも真摯で、没入度の高い集会を見たのは久しぶりだったからだ。子どもを育てる一市民として、素直に感動した。
敢えて比べると、2016年10月から始まり朴槿惠(パク・クネ)政権の弾劾を導いた「ろうそくデモ」当時の雰囲気を感じた。
道行く人が足を止め、教師たちの声に耳を傾ける姿からは、教育問題に対する世間の関心が伝わる一方で、民主主義そのものと言える市民の意志表示に対する支持も感じられた。最近になって、韓国社会の行き詰まり感に悩んでいた筆者にとっても、得がたい経験だった。
なおこの日の集会には教育部次官が参加し、四十九日法要には教育部長官(兼副総理)が参加していた。世論の支えもあり「厳罰に処す」という当初の方針がどこまで貫徹されるのかは未知数だ。
現に5日の朝のYTNラジオに出演した、韓国最大の自治体・京畿道(キョンギド)の教育監(教育の責任を取る職務。選挙で選ばれる)は、処罰に消極的な態度を示していた。
(6日0時追記。韓国教育部は5日午後、集会に参加した教師への処罰予定を正式に撤回した)
●韓国社会の課題として
今回の「教権」をめぐる議論は当初、非常に危うい方向に進んでいた。京畿道やソウルで2010年代に相次いで作られた『学生人権条例』が、教師の権利と衝突しているという議論だった。
まるで、生徒の権利の増進が教師の権利の減少につながるような、「権利のゼロサムゲーム」のような認識が広まっていたのだ。
韓国社会で過去、教師が学生に強権をふるった慣例を脱する象徴である同条例が、現在の尹政権が目の敵にする進歩派の教育監の下で作られたことも、「教師対生徒」という対立軸の形成に火に油を注いでいた。
すわ、韓国社会お決まりの陣営論のお出ましかと思われ目を覆った。保守派の十八番である「権利の制限」に進むのではないか。だが、こうした議論の流れは教師たちの真摯な声により影を潜めた。
権利の制限ではなく、教師の権利と生徒の権利の共存、そして何よりもより大きな視点から教育の「今」を考える流れへと修正され、議論に幅をもたらした。政治的な見解から距離を置いた現場の声が、いかに大切かの反証でもあった。
一方で、早ければ21日に法案成立とされる改革立法に向けては与野党間の認識の差がある。
教師の地位向上や生徒への指導権の確立といった部分では概ね合意があるものの、「教権」の侵害が起きた場合の学校側の強い対応について、保護者による「児童虐待」という主張と、「正当な指導」の間でどう線を引くかが議論の焦点となっている。
他方、教育改革という立場から、さらに踏み込んだ議論を求める声もある。
韓国の市民団体『教育を変える人たち』は4日の声明文で、今回の一連の事態が提示した課題として、(1)教育の主体間の関係の回復、(2)大学入試に従属しない、それ自体で完結した学校教育課程の回復、(3)教師の疎外を克服できる、教師のアイデンティティと専門性の回復、の三つを挙げた。立法は第一歩に過ぎないことが分かる。
「大学歴社会」の韓国で、教師を取り巻く「弱肉強食、各自生存」と言わんばかりの環境は、韓国社会の縮図でもある。
「教育とは『国家百年の大計』である」という国家主義じみた言葉を使いたくはない。だが、圧縮成長を続けてきた韓国の「今」が、間違いなくそこに存在している。この危機をどう乗り越えるかに社会の未来がかかっているといっても過言ではない。
【おまけ】
集会参加当時の連続ツイートを添付しておきます。動画などはこちらからご確認ください。