【京都市】中京区 京都の再発展に尽力した会津藩士「山本覚馬・八重邸宅跡」が京都市役所前に!
幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家であった、「山本覚馬」。その名を聞いた事がありますか?
京都の繁華街である河原町通りと御池通りの角に、「山本覚馬八重の邸宅跡」と書かれた石柱がみれます。
京都の近代化に努め続けた山本覚馬とは、どういう人なのか…
会津藩士であった山本覚馬(1828~92)は、佐久間象山の塾に学び、藩校日新館(にっしんかん)の蘭学所教授となりました。26歳のとき黒船が来航し、感銘を受けた覚馬は、東京で洋式兵学を学びます。
京都守護職となった藩主松平容保に従い、上洛。会津砲兵隊を指揮したそうです。
過去記事参照→ 9月24日松平容保の「京都守護職就任160年記念特別御朱印台紙」開始♪
鳥羽伏見の戦いで投獄されますが、のちに京都府勧業掛として、京都府権大参事(後に知事になった)槇村正直による近代化策を推進、京都舎密局(しゃみつきょく)を設置し、招いた外国人たちから、石鹸(せっけん)・ラムネ・ガラス・写真・印刷などの技術を学び取り入れたそうです。日本最初の博覧会「京都博覧会」を開催、小学校・中学校の創設や病院の創設などにも尽力しました。
京都に住むときに、この場所を選び、妹の八重と一緒に住んでいたそうです。
八重は新島襄の妻となり、新島と共に「同志社」という学校の設立に尽力しました。今でも人気のマンモス学校ですね!覚馬は、「同志社」創立に加わり、「同志社英学校の代理総長」として教育にも力を入れますが、失明と病気を患い亡くなってしまいます。
同志社共同墓地に山本覚馬の墓が建っているのを見る事ができるそうです。
石柱の横には「洛中惣構 土塁(御土居)跡」と書かれています。河原町通が御土居だったことがわかります。聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである「洛中惣構」。「御土居」の内側は洛中、外側は洛外と呼ばれるようになりました。「洛中洛外図」という京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵が有名ですね。
実は、阪急電車烏丸駅の地下乗降通路に「洛中洛外図(高津家本)陶板壁画」があります。これは「高津商会」の時代劇映画が生んだ美術館と呼ばれる「高津古文化会館」(現在閉館中)蔵と書かれてあります。洛中洛外図屏風をパネルや陶版にして展示されているんです!
高津本(こうづぼん)という文字を見るたびにドキドキしながら前を通っています♪
北隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡
洛中惣構 土塁(御土居)跡
所在地:京都市中京区河原町通御池南西角