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「さんまの師匠」笑福亭松之助の教え

てれびのスキマライター。テレビっ子

「明石家さんまの師匠」としても知られる落語家の笑福亭松之助が2月22日、老衰のため93歳で亡くなった。

上方落語界の最長老だった松之助の訃報に常に「明石家さんまの師匠」と注釈がつくのはいささか失礼な気がしないでもない。

しかし、松之助は、さんまがブレイクし始めた当時、袴に「さんまの師匠」と書いて高座に上がるという洒落っ気を見せるような人物だった。

「なんちゅう師匠や」とみんなを笑わせる師匠に、さんまは「俺の選ぶ目は間違いなかった」と誇らしく思ったという。

さんま:「価値観が合う」っていう言い方は師匠にたいへん失礼なんですけど、師匠がやることでものすごく感動することもいまだにあります

出典:『本人』vol.11

「師匠選び」というのもひとつの才能である。

BIG3の3人と笑福亭鶴瓶をテーマにした対談で水道橋博士は、彼らの師匠選びのセンスを絶賛している。

博士:タモリさんの師匠を赤塚不二夫さんだとすると、全員師匠選びのセンスが抜群だよね。

(略)

エムカク:さんまさんは、高校時代がお笑いのピークだったと自分で言われていますけれど、その頃からなんば花月に通うんです。いろんな芸人さんが出てきても全然笑わなかったのが、松之助師匠だけは笑えたそうなんです。

博士:そこが面白いよね。松之助師匠の一般的な人気とはまた別の話で、さんまさんに特に刺さったということが。

エムカク:落語に惹かれて入門したんじゃなくて、師匠に惹かれて入門した。だから落語にはこだわりがなくて、スパッと辞めたんやないかなと思います。

スキマ:鶴瓶さんも松鶴師匠に決定的に惹かれたのは、落語自体ではない。むしろネタが飛んでしまった時の高座で、師匠が「忘れました。サゲだけ言うて帰ります」と言うのをたまたま観ていて入門を決意したという。それもまた鶴瓶的。その後の鶴瓶さんの芸風を連想させます。

博士:たけしさんも、師匠の深見千三郎には芸でねじ伏せられているからね。テレビ的には無名で終わったけど、「この師匠は凄い」というのを身体で覚えさせられた。

出典:『新潮45』2017年10月号

楽しくなることを考えてることは楽しい

さんまが弟子入りした際のエピソードは印象的だ。拙著『1989年のテレビっ子』から引用する。

さんまが笑福亭松之助のもとに入門したのは、1974年。高校3年の夏休みに京都花月で新作落語「テレビアラカルト」を見たのがきっかけだった。

さんまは「高校時代が人生の頂点」だといってはばからない。文化祭でワンマンショーをやれば、体育館ぎっしりに生徒たちがつめかけ、爆笑に包まれた。そのとき既に形態模写や落語、「京子ちゃんシリーズ」などの持ちネタをしていた。間違いなく高校一の人気者だった。だから、さんまは寄席に行っても意地でも笑うかとライバル視していたようなところがあった。だが、松之助のネタだけは本気で笑ってしまったのだ。

「この人の言うことだったら聞ける」

そう思ったさんまは、その年の年末に松之助に弟子入りの直訴をした。

「なんでわしを選んだんや?」

と聞く松之助にまだ高校生のさんまはキッパリと言った。

「はい、センスよろしいから

このアホ、わしのことをセンセあるってぬかしやがる。そんな不遜でふざけた青年を見て「波長があう」と感じた松之助は、ガハハと大笑いした。

「当時の僕としては最大級の褒め言葉のつもり」だったとさんまは述懐する。

「まさに上から目線で喋ってたみたいで。でも、そう言うたんは間違いないと思います。『センスがある』と思って師匠を選んだのは事実ですから」

こうして弟子入りを許されたさんまは、高校卒業直前の74年2月に松之助一門に入門した。

出典:『1989年のテレビっ子』

弟子修行時代は、毎朝7時から松之助の自宅に通い、掃除などを行い、松之助の息子(のちの明石家のんき)たちを幼稚園に送り、松之助の仕事に同行した。

ある日、掃除をしていると松之助に「掃除楽しいか?」と訊かれた。

さんま「『いいえ』って答えると『そやろ』って。『そういうのが楽しいわけがない』と、おっしゃるんですね」

糸井「うん、うん」

さんま「そのときに、師匠に、『掃除はどうしたら楽しいか考えろ』って言われたんですけど、そこでしたねぇ。あの、掃除なんて、楽しくなるわけがないんですよ。ところが、『楽しくなることを考えてることは楽しい』。っていうところにね、18歳のときに気づかせていただいたのが非常に助かりましたね」

出典:ほぼ日刊イトイ新聞「さんまシステム」

人間、服一枚着てたら勝ち

こうした弟子修行のさなか、さんまは一度、松之助の元を逃げ出すように“失踪”している。

当時付き合っていた女性と駆け落ち同然で上京してしまう。もう、お笑い芸人を辞めるつもりだった。そんな覚悟で東京に来たのに、わずか1年足らずで彼女と別れてしまった。

破門は当然だと思っていた。他の師匠の元で一からやり直すか、吉本興業に泣きつくか、そんなことを思案しながら、いずれにしても松之助に謝罪をしなければいけないと、さんまは約半年ぶりに松之助の家を尋ねた。

さんまが謝ろうとすると、松之助は事も無げに言った。

「おい、ラーメン食べに行くぞ」

松之助は何も言わなかった。叱責の言葉も一切なかった。実はさんまが「辞めます」と出て行った翌日には他の師匠たちに「また帰ってくるんでよろしく」と伝えていた。さんまは必ず戻ってくると、松之助は確信していたのだ。

周囲からの雑音を封印するために、松之助はさんまを改名させる。「笑福亭」の屋号のままだと、さんまの芸風では「落語家のくせに落語をしない」と言われてしまうだろうという予感もあった。この頃から松之助はさんまには落語よりもテレビだと見抜いていたのだ。さんまは松之助の本名「明石」をもらい、「明石家」と名乗った。

「明石家さんま」の誕生である。

出典:『1989年のテレビっ子』

懐深く思慮深い松之助なくして「明石家さんま」は生まれていなかったのだ。

生きてるだけで丸もうけ」というあまりにも有名なさんまの座右の銘も、実は松之助の教えによるものだ。

僕が18のころ、うちの師匠は、内山興正さんの禅の本や、遠藤周作さん、曾野綾子さんの本ばっかり読んでらっしゃって、僕もよく読まされたんです。それで、人間、服一枚着てたら勝ちやぞ、とか、裸で生まれてきたわけですから、一回おむつでもすれば、もう人生勝ちなのにっていう話をよくしてて、これが僕の座右の銘になった。

出典:『AERA』2010年4月19日号

松之助の哲学は、さんまに色濃く継承されているのだ。

その「あるがまま」に生きる松之助の哲学は自著『草や木のように生きられたら』に詳しく綴られている。

そこには、さんまに対する思いや誇りも愛情たっぷりに描かれている。

またさんまが「自分が歳をとったら、師匠の家しか帰るところはない」と語ったとも明かされている。きっとさんまが「杉本高文」に還って甘えられるほぼ唯一の人だったのだろう。

松之助はさんま以来、弟子を取ることは一切なかった。その理由について松之助らしい言い回しで書いている。

わたしのところへ来たら「さんま」になれると思っている人が多いのです。それならわたしが「さんま」になっているはずですのに。

出典:笑福亭松之助:著『草や木のように生きられたら』

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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