“憲法改正”論議がカルト化していく理由
この記事が掲載されるのは参院選の翌日で、事前の選挙予想では自民党の大勝が確実視されています。衆参のねじれが解消されれば、アベノミクスや消費税増税とならんで憲法改正が政治の争点として浮上することになるでしょう。
安倍政権の本音が憲法9条の見直しにあることは、昨年4月に自民党が発表した憲法改正草案を見ても明白です。ところがこの「草案」が強い批判を浴びたことで、憲法改正のハードルを下げるために96条先行改正へと方針変更されました。
日本において常に憲法が問題になるのは、それが敗戦後の米軍支配下において、マッカーサー元帥率いるGHQによってつくられたものだからです。「日本側の意見も取り入れられた」との主張もありますが、現行憲法が英語版を日本語訳したことは歴史資料においても明らかです。
ところで、私たちはなぜ憲法を「押し付けられた」のでしょうか。それは、大日本帝国が無謀な戦争に突入して無残な敗戦を喫し、広島と長崎に原爆を落とされたうえに、侵略と植民地主義の責任を戦勝国から問われたからです。それは日本国に対し、300万人の自国民の戦死者だけでなく、2000万人ちかいアジアの死者への「罪」を問うものでもありました。
戦後70年ちかく経ったいまに至るまで、日本人はこの「歴史問題」とどのように向き合えばいいかわからないままです。だからこそ、“不都合な歴史”を不断に突きつけてくる憲法を「取り戻す」ことが保守派の悲願になるのでしょう。
一般論としていえば、主権者である国民の総意によって、憲法を時代に合わせて改正していくのは当然のことです。保守派は社民党などの護憲派を「憲法を不磨の大典にしている」と揶揄しますが、GHQの若者たち(ただし、理想に燃えた優秀な若者たち)が突貫工事でつくった憲法をありがたく押し頂いて一字一句の変更も許さないのでは、自主自尊の気概に欠けるといわれても仕方ありません。
憲法護持派は、現行憲法にはなにか特別なちからが宿っていて、9条の文言を変えればたちまち日本を災いが襲い、戦争に巻き込まれると信じているようです。これは、言霊信仰以外のなにものでもありません。
しかしそれをいうなら、憲法改正派もまた同じ言霊信仰に毒されています。
憲法はもともと、暴力を独占する国家から国民の人権を守るためのものです。現行憲法の前文はそうした意図で明快に書かれていますが、自民党の改正草案はこれを全面的に書き直し、国民に対し、「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って」、「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」ことを求めています。立憲主義の立場からすると、憲法は国民が国家を拘束するためのもので、国家が国民に説教するのは大きな勘違いです。
ひとびとがゆたかになるにしたがって、価値の中心が「社会」や「家族」から「個人」に移るのは世界のどこでも同じです。ところが憲法改正派はこれを“マッカーサー憲法”のせいにして、憲法を変えれば日本人がふたたび“和”を尊ぶようになると信じているのです。
異なる言霊信仰が衝突しているのですから、憲法をめぐる議論が「国民和解」へと至ることは永遠にありません。憲法について語ると徒労感しか残らないのも当然です。
『週刊プレイボーイ』2013年7月22日発売号
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