「公正さ」とは何か:アメリカのアファーマティブ・アクションをめぐる論争
女子受験生の点数を一律減点していた東京医科大への非難の核心には「公正さとは何か」という理念がある。これはアメリカで長年続いてきたアファーマティブ・アクションの運用をめぐる議論そのものである。
(1)入学選抜における「公平」をめぐる議論
今回の東京医科大の問題は、女性というだけで減点するという差別性や、制度の不透明性さ、さらには教育機関が社会的差別を追認してしまっているという点で様々な反発を生んでいる。
この問題の前提となるのは「大学入試選抜は公正であるべき」という強い理念である。「医師としては適切なのは男性」「女性だから落とす」という方針が受験生に開示されずに数年前から決められてしまっていたというのはあまりにも公正でない。
公正さをめぐって、長年論争が続いているのが、アメリカのアファーマティブ・アクションという制度である。
誤解のないように最初に指摘したいのが、そもそもこの制度は「特定の人を落とす」ものではなく、日本語で「積極的差別是正措置」などと訳されているように、女性や人種マイノリティという社会的不利な状況に置かれている人々を「公正でない」状態にあると捉え、大学入学の際などに差別を是正しようとする動きである。
また、この制度があることも志願者には明確に開示されてきたため、東京医科大とは大きく異なる。
それでも結果的には男性や白人にとっては「逆差別」になってしまってきたのは事実である。これが「公正さ」をめぐる議論を生み出してきた。さらに女性の進学率が高くなる中、女性が対象から外されることが多くなったほか、過去20年の間では人種マイノリティの差も大きくなっており、共通試験で秀でているアジア系を入学選考での優遇対象からはずす動きも広く出てきたため、状況は複雑だ。ここ数年注目が集まっているハーバード大学の入学選考をめぐる「アジア系への差別があったかどうか」はまさにこの複雑な判断から生まれている。
(2)アファーマティブ・アクションとは何か
それでは、そもそもアファーマティブ・アクションとは何か。そしてこれまでの動きを振りかえってみる。
アファーマティブ・アクションは国内の社会的不平等是正のため、黒人や女性など少数派を制度的に優遇する措置の総称であり、少数派が経験してきた長年の不公平な歴史により、経済的・社会的影響が大きく、なかなか社会的可動性が思うように得られない状況を背景にしている。大学入学選抜だけでなく、就職の際の少数派優遇や少数派経営企業の政府の調達対象優先などとして運用されてきた。
「学校などの公機関で隔離するのは不平等」としたブラウン判決(1954年)が下され、人種差別撤廃を求めるアフリカ系の公民権運動の高まる中、ケネディ大統領が連邦政府の契約企業に命じた1961年の大統領令がアファーマティブ・アクションの端緒である。さらに、1964年成立の公民権法(Civil Rights Act of 1964)で法制化された。
アファーマティブ・アクションの政策の根拠となるのが憲法修正14条「法の下の平等」であり、社会的な平等を強く訴えたジョンソン大統領の「偉大な社会(The Great Society)」政策の象徴的存在になった。
1972年の雇用機会均等法が教育機会授与の重要性を強調したことなどから、大学の入学者選抜でも少数派優遇措置が本格的にスタートしている。大学側は様々な形で少数派を優遇し、学生選抜に一定の少数派枠(クォータ)を設定したほか、少数派の共通テスト(学部ならSAT、大学院ならGRE やGMAT など)の結果に加点するなどの措置をとった。
しかし、「公正さ」をめぐって、導入から間もないころから様々な司法での戦いが続いてきた。いうまでもなく白人や男性にとっては不当な「逆差別」になりうるためで、「公正さ」という理念そのものの難しさが露呈している。アファーマティブ・アクションを提供するとしても、「どこまでが合憲でどこまでが違憲か」がその後の法廷での争点になっていった。
1978年のバッキー判決(Regents of the University of California v. Bakke)では、大学入学を断られた白人男性の起こした訴訟であり、訴えられたカリフォルニア大デービス校医学部の場合、定員100人中のうち、少数派と経済的困窮世帯出身枠が合計16人だった。連邦最高裁は「アファーマティブ・アクションそのものは合憲だが、マイノリティ枠を数で定めるクォータは違憲」という判決を下した。
マイノリティ枠を数で定めることができなくなったため、少数派の志願者に対し、大学入学選抜応募の時に志願書や成績などと同封する共通試験の結果について、各大学は一定程度の加点をする形でアファーマティブ・アクションを運用するようになった。しかし、その点数も大学によってまちまちであるほか、そもそも少数派であることを志願書での人種などの自己申告で判断するという制度そのもののあいまいさを指摘する声も強くなった。
その加点制も2003年のミシガン大判決(法科大学院対象のGrutter v. Bollinger、及び学部対象のGratz v. Bollinger)では違憲となる。ミシガン大学は少数派の志願者には自動的に150満点の20点を加点していたが、これが禁じられた。しかし、一方で「アファーマティブ・アクションそのものは合憲」となっている。
2016年テキサス大判決(Fisher v. University of Texas)では、優遇する際の基準を厳格化したが、アファーマティブ・アクションそのものの合憲性は認められ、現在に至る。
最高裁での憲法判断とは別の形で、州レベルでの見直しも進んでいる。1996年にはアファーマティブ・アクションそのものを廃止するカリフォルニア州法(Proposition 209)が成立した。(その後の訴訟で発効は翌97年3月まで遅れる)。98年にはワシントン州も廃止(Initiative 200)。2000年にはフロリダ州も教育の場での優遇を廃止した(One Florida Initiative)。
(3)教育の現場でのアファーマティブ・アクション
アファーマティブ・アクションは「公正さ」を追求すればするほど、措置そのものが難しくなっている。
アメリカの大学や大学院の入学選抜は基本的には書類選考(一部で面接)であるため、アファーマティブ・アクションでやれることは、「迷ったときにできれば少数派を合格させたい」という申し合わせ程度になりつつある。
ただ、アメリカの大学教員の友人たちによると、それでもさらに問題もある。そもそも、アメリカでの人種はたとえば10年ごとの国勢調査でも自己申告であり、大学への応募も少数派であることを志願書の人種などの欄で自己申告する形になっている。「嘘」を書く可能性というあいまいさは消えない。
また、優遇される学生の自尊心の問題もある。「お前が入ったのはアファーマティブ・アクションだからだ」という言葉は映画やドラマだけでなく、実際のキャンパスでも飛び交うことがあるという。
さらにアファーマティブ・アクションを導入し50年ほどになるが、この間の成果をどう見るかも意見は分かれる。導入前に比べて少数派と多数派との差(たとえば卒業後の収入差)は減ったもののまだ確実に存在する。ヘッドスタート制度など少数派の幼児教育の重点化などの他の形の優遇措置も進んでいるが、長年の社会的不平等を50年で変えることができるのかはなんともいえない。
実際に優遇措置に対する規制を導入した州では州立大学でのアフリカ系、ラテン系などの学生の比率が下がることもあり、この点も複雑だ。
(4)終わりがない「公正とは」という議論
「何を持ってアファーマティブ・アクションか」という定義の差はありながらも、世論はアファーマティブ・アクションの存続そのものは比較的支持をしている。しかし、分極化の中、党派性で運用が大きく異なりつつある。
トランプ政権は7月はじめ、積極的なアファーマティブ・アクションを促していたオバマ前政権の指針を廃止し、慎重だったジョージ・W・ブッシュ政権のときの立ち位置に戻った。セッションズ司法長官は声明で、優遇措置は「不必要かつ時代遅れで、現行法とも矛盾する」と強調した。一方で、同長官はアファーマティブ・アクションの対象から外れている、アジア系に対する逆差別にメスを入れつつある。
何を持って「公正か」という議論には終わりがない。
今回の東京医科大の問題も「開示すればよかったのか」などいろいろな議論があろうが、それでも「それで公正か」はなかなか断言できない。