“怪童”登場、異例の前後期制、ドジャースのリベンジ…メジャーリーグ史上「最も短い」シーズンとは
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、米疾病対策センター(CDC)が今後8週間は50人以上が集まるイベントの中止もしくは延期を要請したことを受け、メジャーリーグ(MLB)は当初は3月26日(日本時間27日)から2週間程度、延期するとしていた開幕戦をさらに遅らせると発表。これにより今シーズンの開幕は、早くても5月中旬までずれ込むことになった。
1901年に現在の2リーグ制が確立されて以降、第1次世界大戦や選手会のストライキなどで、MLBは何度かレギュラーシーズンを短縮したことがある。その中でも結果的に「最も短いシーズン」となったのが、今から39年前の1981年である。
20歳のバレンズエラ、開幕8連勝で一大ブームに
当時はMLBでフリーエージェント(FA)が制度化されて、まだ5年という時代。前年のオフにはサンディエゴ・パドレスからFAになったデイブ・ウィンフィールド(当時29歳)がニューヨーク・ヤンキースと10年の長期契約を結び、しかも130万ドル(当時のレートで約2億6000万円)の年俸は物価に応じて昇給するという異例の条件で注目を集めていた。
だが、シーズンが始まってみると話題をさらったのは、開幕時点でまだ20歳の“怪童”だった。それがロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラである。前年の終盤に初めてメジャーに昇格して2勝を挙げていたメキシコ出身のサウスポーは、スクリューボールを武器に開幕から8連勝。本拠地のドジャースタジアム周辺に多いメキシコ系のファンを中心に、「フェルナンド・マニア」と呼ばれる一大ブームを巻き起こした。
しかし、バレンズエラが2ケタ勝利到達を目前にしていた6月12日、労使交渉のもつれから選手会はストライキに突入。8月9日のオールスターゲームを経てシーズンが再開されるまで、北米各地の球場からは2カ月近くもファンの歓声が消え、全26球団という当時のMLBで700試合以上がキャンセルされた。
さすがにこれだけの試合をあらためて日程に組み込む余裕はない。苦肉の策として打ち出されたのが、シーズンを短縮してストまでを前期、スト後を後期として行うという、MLBでは前例のない2シーズン制だった。
最高勝率球団がプレーオフに出場できない「ねじれ」も
これにより、スト開始の時点で首位だったフィラデルフィア・フィリーズ(ナ・リーグ東地区)、ロサンゼルス・ドジャース(ナ・リーグ西地区)、ニューヨーク・ヤンキース(ア・リーグ東地区)、オークランド・アスレチックス(ア・リーグ西地区)の4球団は前期優勝が決定。急ごしらえの規定により、仮に前期優勝チームが後期も優勝した場合、後期2位のチームとプレーオフ(リーグ優勝決定シリーズ)進出をかけて地区優勝決定シリーズを戦うことになっていたため、「前期優勝のチームは、後期は手を抜くのではないか」との指摘もあった。
実際、“闘将”ビリー・マーティン監督率いるアスレチックスは、後期も1位のカンザスシティ・ロイヤルズと1ゲーム差の2位に食い込んだものの、フィリーズとヤンキースは勝率5割を切り、かろうじて貯金1のドジャースも4位に終わった。このため前後期通算では全球団中最高勝率のシンシナティ・レッズ(ナ・リーグ西地区)が、地区優勝決定シリーズにすら出られないという「ねじれ」も起きている。
MLBは、1962年から現在に至る各球団レギュラーシーズン162試合制になっていたのだが、この1981年は最も試合数が多かったのはサンフランシスコ・ジャイアンツの111試合。最も少なかったカージナルスなど4球団は、103試合だった。
後に両リーグ各3地区制導入に伴って地区シリーズが常設されるようになるが、そのはるか以前に行われた「地区優勝決定シリーズ」は、ナ・リーグ東地区ではモントリオール・エクスポズ(現在のワシントン・ナショナルズ)がフィリーズを破り、カナダの球団としては初の地区優勝。西地区はドジャースが2連敗からの3連勝で、アストロズの地区連覇を阻んだ。
ラソーダ監督率いるドジャースは“因縁”のヤンキースにリベンジ
ドジャースは、リーグ優勝決定シリーズでもエクスポズを下し、トム・ラソーダ監督就任5年目で3度目のリーグ優勝。3年ぶりのワールドシリーズでは、地区優勝決定シリーズでミルウォーキー・ブリュワーズ、リーグ優勝決定シリーズでアスレチックスを破って駒を進めてきたヤンキースと相まみえることになる。ドジャースにとっては、ニューヨークのブルックリンを本拠地としていた頃からの因縁があり、ラソーダ監督にとっては就任以来、2年連続してワールドシリーズで苦杯を喫した相手でもある。
その因縁のチームを相手にドジャースは敵地でいきなり連敗しながらも、バレンズエラが先発した第3戦をモノにすると、そこから4連勝。ヤンキースにリベンジし、ウォルター・オルストン監督時代の1965年以来、16年ぶりの王座に返り咲いた。
この年のメジャーリーグの“顔”であったバレンズエラは、シーズンでは13勝(リーグ2位タイ)7敗、防御率2.48の成績を残し、180奪三振、11完投、8完封はいずれもリーグトップ。英語が話せず、シーズン中は通訳を通じてサイ・ヤング賞の話題を振られても「それは何ですか?」と聞き返すこともあったというが、新人王とサイ・ヤング賞をダブル受賞した史上初の選手になった。
ちなみにFA移籍1年目のウィンフィールドは、前期は56試合の出場で打率.324、7本塁打、40打点と、主に三番バッターとしてヤンキースの“優勝”に貢献。しかし、ポストシーズンではリーグ優勝決定シリーズ以降は振るわず、特にワールドシリーズで22打数1安打と不振を極めたことから、まだ50代に入ったばかりで血気盛んだった名物オーナー、ジョージ・スタインブレナーの不興を買うことになる。
メジャーリーグはその後、1994年にも選手会のストライキによりシーズンの大幅な短縮を余儀なくされ、この年はワールドシリーズも中止となったが、それでもレギュラーシーズンは最も少ないチームで112試合。翌1995年も前年から続くストの影響で開幕は4月下旬となり、ドジャースに入団した野茂英雄のデビューも5月2日と遅れたものの、144試合制でシーズンを消化している。
したがってレギュラーシーズンという意味では、1981年がこれまで「最も短い」年だったということになる。今年はあらたに筒香嘉智(レイズ)、秋山翔吾(レッズ)らが海を渡ったが、新型コロナウイルスの影響により、その1981年よりも短いシーズンになってしまうのだろうか…。