「高等教育の無償化」は教育関係者への巨額の補助金
2020年施行を目指して憲法改正を表明した安倍首相ですが、9条と並んで「高等教育の無償化」を掲げたことが議論を呼んでいます。
「わざわざ憲法に書き入れる必要はない」との批判は、9条改正の目くらましを警戒しているのでしょう。「社会保険料から徴収する子ども保険は負担が現役層に偏り不公平だ」とか、「子ども国債は赤字国債と同じで将来世代への借金の先送りにすぎない」との批判もありますが、だったら消費税を引き上げて教育予算を増額すればいいのでしょうか。
この問題を考えるポイントは、そもそも教育無償化が誰のためのものか、ということです。
農家が、「ご飯をたくさん食べれば健康で長生きできる」としてコメの無償化を求めたとしたら、これが農家への補助金であることは誰でもわかります。しかし教育の無償化では、まったく同じことを主張しているにもかかわらず、「子どものため」とか「未来の日本ため」とされて、教育関係者への巨額の補助金であることは誰も指摘しません。
これは国民のあいだに「教育はよいもの」という幻想が強いことと、一般的に教育関係者が頭がいいことから説明できます。彼らはその高い知能を使って教育幻想をまき散らし、政治家や官僚、国民を幻惑して自分たちの懐に税金を投入させようとし、その利己的な所業を自己欺瞞によって気づかないようにしています。優秀な詐欺師と同じように、自分への補助金を「子どものため」だと本気で信じ、きれいごとをいいつづける厚顔無恥は、自分で自分をだましているひとにしかできません。
教育を無償化する根拠として、高卒より四年制大学の卒業者の収入が高いことが挙げられますが、これは奇怪な論理です。
一流大学の卒業生が就職に有利なのは、その希少性が知能と能力の指標として使われているからです。「東大卒」のブランドがあれば誰でも成功できるなら、18歳の全員が東大に入れるようにすればいいでしょう。大卒を増やせば貧困を解消できるというのは因果関係が逆転しています。
もちろん、「賢い子どもが貧しさで進学をあきらめる」ことはあるでしょう。しかしその場合は、奨学金や民間金融機関の教育ローンを充実させればいいだけです。「よい大学にいけば経済的に成功できる」というのがこの話の前提なのですから、社会に出たあとに利子をつけて返済してもらえばいいだけの話で、税金を投入する理由はどこにもありません。
教育無償化の理屈が破綻するのは、「子どものため」に税金を使えと主張するからです。「私的な利益になぜ自分の税金が使われるのか」との批判に抗するには、教育が「社会のため」であることを証明しなければなりません。「人的資本に投資すれば、(犯罪率の低下などで)10万円の税金が将来的に20万円になって返ってくる」というのなら、この話を真剣に考えるひとも出てくるでしょう。
だったらなぜ、「証拠に基づいた」議論ができないのでしょうか。それは、日本で「高等教育」と呼ばれているものの現場にいるひとたちが、働いて税金を納めることのできる人材を養成しているかどうかを検証されると困るからなのでしょう。
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