モスクワ五輪「ボイコット」が決まった――1980年5月24日
<極私的スポーツダイアリー>
1980年5月24日、モスクワ五輪「不参加」を決定
「柔道を始めるとき大きな夢を持ちました。一生懸命がんばって、将来オリンピックに出るんだと……」
真っ直ぐに前を向き、胸を張って堂々と訴える山下泰裕の姿が印象的だった。そこには柔道家らしい清々しささえあった。
「オリンピックのために、毎日毎日、練習してきて、これで出れなかったら何のためにやってきたのか……」
絞り出すようにそこまで口にして高田裕司は涙を拭った。左瞼には絆創膏。合宿中だった最強のレスラーは、午前の練習を終えた後、岸記念体育館にやってきたのだ。
このとき「ボイコット」はまだ決まっていない。だから23競技の選手・コーチ約100人が集まり、テレビカメラが取り囲む中、それぞれが吐露した思いは”抗議”というより、”懇願”だったというべきかもしれない。
そんな悲痛な姿を目の当たりにした多くの国民も同情した。何とか出してあげたい。誰もがそう思った。
しかし、涙の訴えから1ヶ月後――。
1980年5月24日、日本オリンピック委員会(JOC)はモスクワ五輪への「不参加」を決定する。
いまから40年前のことである。
あの頃
あの頃、あなたはどこで何をしていただろうか(……と尋ねても、「まだ生まれてない」と返ってきそうなので、今回は少し丁寧に説明します)。
冒頭紹介した印象的なシーンは繰り返し放送されてきたから目にしたことがあるだろう。
当時、柔道の山下は23歳、レスリングの高田は26歳だった。山下は前年の世界選手権で優勝、高田は前回のモントリオール五輪で金メダル(それどころか世界選手権でも4度優勝)。ともにモスクワでの金メダルが確実視される選手だった。
マラソンには「史上最強トリオ」と言われた瀬古利彦、宗兄弟(茂・猛)がいた。女子バレーボール「新東洋の魔女」はオリンピック連覇がかかっていた。そして史上初の「小学生代表選手」水泳の長崎宏子(なんと11歳!)……それがモスクワ五輪の頃である。
プロ野球では「世界のホームラン王」王貞治が、芸能界では山口百恵がこの年、引退する。
若者がソニーの「ウォークマン」でカセットテープを聞きながら街を闊歩し、原宿では「竹の子族」が踊り、「なめ猫」と「ルービックキューブ」がブームになっていた時代。
お父さんたちはスナックで「別れても好きな人」をデュエットし、その一方で予備校生による「金属バット両親殺人事件」に震撼していた。
もしかしたら「1億円を拾った大貫さん」を羨ましがっていたかもしれない。
それが1980年である。
ちなみに僕は高校1年生だった。RCサクセションの「雨上がりの夜空に」で仲間と騒ぎ過ぎて先生に怒られ、そのくせ久保田早紀の「異邦人」の不思議な浮遊感に魅せられたりもしていた。
テレビでは「金八先生」が放送されていて、「順子」がヒットした長渕剛はまだ長髪だった。
山下や高田が涙ながらに訴える様子はニュースで見た。「かわいそうだな」と思った。
でも、それ以上のことはわからなかった。まだ子供で世の中の仕組みを知らなかった。
ボイコットの背景
発端は、ご存じの通り、前年(1979年)12月のソ連によるアフガニスタンへの軍事侵攻である。
当時は冷戦下、アメリカは即座にこれに反発。モスクワ五輪へのボイコットを西側諸国に呼び掛けた。日本政府がこれに追従したのは言うまでもない。
ただし、オリンピックへのエントリーはJOCの専権事項である。表立って政府が介入するわけにはいかない。
だから、たとえば「政府として参加、不参加には言及しない。JOCの適切な対処に期待する」。こんな文言で暗に”圧力”をかけた。
もちろんJOCの一部の委員はオリンピック参加を最後まで模索し続けた。(全選手が無理なら)少数派遣の可能性まで検討していた。
だが、叶わなかった。
最終決定が行われた5月24日、JOC理事会に先立って行われた日本体育協会(体協)臨時理事会に突然、伊東正義官房長官が来訪。「政府の本心は参加することに反対」、「ボイコットしてくれ」とついに明言したのである。
スポーツ団体の会議で官房長官が演説するなど前代未聞である。
当然「政治介入だ」と批判する声も上がった。だが、元参院議長でこのとき体協会長だった河野謙三の「私が頼んで、来てもらったのだ」というレトリックに封じられた。
その後、開催されたJOC理事会では柴田勝治委員長が議事をリードした。自ら「不参加やむなし」と提案し、これへの賛否を問うたのだ。五輪への参加/不参加ではなく、提案に賛成か否か。
採決は挙手で行われた。賛成29、反対13だった。こうして、JOCが自ら決議したという形で、モスクワ五輪への不参加が決まった。
なぜ最後の最後まで「参加」を貫けなかったのか、そう思う人もいるだろう。
だが、このときJOCは体協の一部門に過ぎなかった。そして、その体協は文部省の監督下にあるばかりか、年間予算約30億円の半分を国からの補助金に頼っていた。
モスクワへの選手派遣費約2億円も、国からの6000万円と日本自転車振興会からの1億円で賄われることになっていた。
つまり構造的にも財政的にも独立していなかったのだ。だから政府の方針に抗うことができなかった(事実、不参加を決定した理事会では文部次官から「今後の補助金カット」を匂わせる発言もあった)。
つまり、こういうことになる。ごく単純に言う。
アメリカの意向に日本政府は逆らえず、その日本政府の意向に体協は逆らえず、その体協の意向にJOCは逆らえず……。
それが日本とスポーツとオリンピック委員会の立場だったということだ。
スポーツと個人の自立
ところで「アメリカの呼び掛けに応じて西側諸国がボイコットした」とされているモスクワ五輪だが、実はそうでもなかったことを知っているだろうか。
実際にはイギリスやフランス、イタリア、スペイン、オーストリアなどヨーロッパの国はほとんど参加しているのだ(東欧は「東側」なので当然参加)。
日本との違いは何か。
たとえばイギリス。サッチャー首相は「参加すべきではない」と明言していたし、日本と同じように政府からの圧力も受けた。公務員の選手にオリンピック出場のための休暇許可を与えず、スポンサー企業には支援をやめるよう手を回したとも言われている。
それでもイギリスのスポーツ界は屈しなかった。
オリンピック委員会は「スポーツを政治の手段として利用するのは間違いだ。政府には我々を止める権利はない」と反論。「GIVE US A SPORTING CHANCE」と意見広告を出し、寄付金を募って渡航費を集めて選手をモスクワに送った。
フランスではそもそも政府が主導することすらしなかった。
「判断は個人に委ねる」としたのだ(フランスらしい)。そして、それぞれの選手が自らの考えの下、オリンピックへの参加/不参加を決めた。
「スポーツの自立」、そしてその前提にある「個人の自立」。
彼らにあって、日本になかったのはこれに尽きる。「国民性の違い」で片づけたくないほど本質的な違いが、彼我の間にはあった。
ちなみに、このときアスリートの先頭に立って活動し、出場したモスクワ五輪では金メダルも獲ったイギリスの中距離ランナーが、「東京五輪延期」のニュースにもたびたび登場したセバスチャン・コーだ。
当時23歳。大学で経済を学び終えたばかりだった。
現役引退後は政界に進出。2012年のロンドン五輪では招致段階から大会の成功まで中心的な役割を果たす。そして今年、国際陸連会長として、パンデミック下にもかかわらず決断できないIOCを促して「開催延期」を実現させたのである。
あれから40年
JOCが財団法人となり、体協からの独立を果たしたのは1989年のことである。独自の財源を持ち、自立した意思決定ができる組織への出発点にようやく立てたのだ。
あのとき政府方針に同調した河野や柴田にしても選手たちをオリンピックに行かせたくなかったわけではない。苦渋の末の判断だった。
同じ事態を二度と繰り返さないためには独立する必要があり、そのために9年の時間を要したのだ。
初代会長に西武グループの堤義明を迎え、「がんばれ!ニッポン!キャンペーン」などで収益を上げ、民間主導の運営を目指したその改革の顛末は、ここでは長くなるので触れない。
近年に限って言えば、成長産業に位置づけられたことでスポーツ予算が拡大し、結果的に国への依存はむしろ高まっているようにさえ感じる。「日本スポーツ界は自立できたか」と問われても、残念ながらうなずくのは難しい。
でも、だからこそ、あの悔恨を思い出したい、と強く思う。悔恨を胸に日本スポーツ界を変えようと戦った人たちがいたことも忘れたくない。
あれから40年が経った。
かつての選手たちはいまスポーツ界をリードする立場になった。
ボイコットから4年後、「大きな夢」を実現した山下は、ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得。足を引きずりながらエジプトのラシュワンと組み合った決勝戦は日本スポーツ史に残る名場面となり、国民栄誉賞にも輝いた。
そして、いまJOC会長。難しい舵取りの真っ只中にいる。
東京オリンピックは風前の灯火だろう。だとしてもスポーツの火を絶やすわけにはいかない。
ボイコットから歩んできた日本スポーツの道。その真価がこれから問われることになる。