労基法違反が蔓延する理由について― 弁護士による一考察
昨年から電通の労基法(労働基準法)違反に関するニュースが世間を賑わしてきましたが、年始早々には三菱電機も労基法違反で書類送検されるなど、大企業内で労基法違反が常態化していることが明るみになってきました。
そして、このような事態は今に始まったことではなく、以前から多くの会社では労基法違反が常態化しているといった声が多数上がっているようです。
どうして多くの会社で労基法違反が常態化しているのか
それは、現在の労働法(労基法を含む労働関係に関する法律の総称)は遥か昔に制定されたもので、現代社会との間にひずみが生じているからだろうと考えます。
その理由は様々、以下に述べることだけでは決して十分ではありませんが、少なくとも2つの理由が挙げられます。
労働法は単純労働を前提に制定されている
まず1つ目の理由は、労働法は、実は工場法という工場労働者の保護を目的とした法律に起源があるという点です。
つまり、元々は、時間内にせっせと作業をして、やったらやった分だけ結果が出るような、工場等における単純労働、肉体労働、集約労働における労働者を保護することを想定して制定されたものです。
要は、労働法が考える労働とは、労働時間が多くなれば多くなるほど業務の成果が比例するもの、すなわち労働とは労働時間で評価できるものだということを前提にしているのです。
だからこそ、労基法には、1日の労働時間は8時間以内とすべき(法32条)、労働時間が6時間を超えたら少なくとも45分の休憩をとるべき(法34条)、1時間多く労働をすればその分残業代を支払うべき(法37条)等という、労働時間に関する細かい規定が多数設けられているのです。
しかし、現代社会に多くなってきた知的労働が中心の労働者の場合、長い時間労働をすればそれに伴って成果が出るわけではありませんし、逆に、労働時間が短ければ労働をしていないとも言えません。
そのため、労働内容を労働時間で評価するには限界があり、様々な場面で不都合が生じやすくなっています。
もちろん、知的労働においても過度に労働時間が長くなれば悲惨な被害者が出てしまいますので引き続き改善されなければなりませんし、単純労働においては従来から存在する長時間労働等から保護していく必要はありますが、もう少し労働内容に応じて適正な労働とは何かということを考える必要があるということです。
終身雇用が崩れた時代に、正社員はそぐわない?
もう1つの理由は、雇用契約についての問題です。
これまで日本の労働法は、正社員の地位を非常に強く保護してきました。
高度経済成長期の労働は、組織・資本に依存してこそ初めて労働が可能となる「組織依存型の労働」が中心で、これはまさに工場労働者の地位と重なるところがありました。
そしてこのような考えの背景には、現代のように一人ひとりが情報を取得することもできず、組織に属し、組織から与えられた情報を元に組織から与えられた労働をする以外に選択肢がなかったという事情があります。
それでも高度経済成長期においては、企業が順調に成長していくため、組織に依存する労働者がひどい労働環境に追い込まれることも少なく、現代ほど労働法の問題点が露呈することが少なかったのかもしれません。
そのため、労働者と企業との間で、「特定の職務」に従事するための労働契約を結ぶのではなく、労働者が人生をかけて特定企業に従事することを前提とした「無期限の長期雇用契約」を結ぶという関係ができ上がっていきました。
このような労働者と企業との関係を象徴しているが、「解雇権」に関する非常に厳しい制限です。
例えば、労働者を解雇する場合に、その労働者が特定の業務について十分な成果を果たせない場合にも、別の業務に配置転換できないかを検討して、出来る限り解雇を回避し、その企業内で労働させなければならないと扱われてきました。
しかし、すでに高度経済成長が終わりを迎え、終身雇用が崩れている現代においては、同じ会社に長く勤めて尽くし続けるようにすべきというような考え方は不適当になってきています。
そして、結果的に、人材の流動性が乏しくなることで、以下のような悪循環を生んでしまっているという指摘がなされています。
・一度雇ったら簡単には辞めさせられない
↓
・正規雇用を減らす
↓
・新しい人が入らない
↓
・既存の正社員を長く働かせる
↓
・長時間労働が横行する
しかも、長時間労働を強いたとしても、残業代がさほど高くないため、経営者側にとっては、新規に社員を増やすよりも、既存の社員に長く働かせる方がコストが低く、長時間労働が広まってしまうわけです。
もちろん人材の流動性が高まれば長時間労働が是正されるという単純な話ではないと思いますが、正社員の地位を過度に保護する労働法は、現代社会にはそぐわないのではないかと思います。
どういう労働社会であるべきか?
以上のようなことを考えていると、現代のようにたくさんの職種、業態、階級が存在する経済社会において、単純労働を前提としてきた労働法のみを参考に、労働法に違反するかどうかを考えるのではなく、本来は、個々の労働内容によって、どのような労働環境においてどのような労働をしていくべきかを考える必要があるはずです。
まず、先に申し上げたように、人材の流動性を高めるということは必要だろうと考えます。
自殺に追い込まれるほど辛い状況であるのに、その会社を辞めないのは、辞めることがそれだけ大きなリスクだと考えてしまうからです。
今でも、良い大学を出て、新卒で良い企業に勤めて、転職もせずに勤め上げることが素晴らしいキャリアであると考える人は多く、これに対して、労働者からすれば、まさか新卒一年目でせっかく入社した会社を辞めようものなら、親が悲しんでしまう、社会から不適合者や敗者だと思われてしまうと考えてしまいがちです。
また、キャリアのやり直しがしづらく、僕自身も大学卒業後、新卒で就職した会社を2か月で辞めて一旦フリーターになってしまった時、まともな会社には相手にされなかったのを覚えています。
新卒の時には多少は話を聞いてくれたのに、一度キャリアに足踏みがあると、人間自体は何も変わっていないのに、こういう扱いを受けるのかと感じました。
このような事情があると、労働者にとっても現在の労働環境が自分に不向きだと思っても、ギリギリまで現在の職場に留まろうと思ってしまい、手遅れになってしまう危険性が高まってしまいます。
これに対して、人材の流動性さえ確保されている社会であれば、個々の企業によっては、労働時間について一律の制限を設ける必要はないのではないかと思います。
クリエイティブな部署であれば、労働時間なんて気にしたこともない社員ばかりということは普通にありますし、それはそれで構わないんじゃないかと思います(電通事件でも、単に長時間労働のみが問題だったわけではなく、上司からのパワハラが問題だったという指摘もされているようです)。
ただ、いざそのような部署に就いてみたものの、自分には合わないなと思った人が、きちんとその職場を変えることさえできれば、労働者が追い込まれてしまう前に救出することができるようになります。
労基法違反による被害の具体的なケースがあまりに酷なものであるため、電通のような事件が起きると社会全体で徹底的に叩こうとしてしまうし、またそういう論調の意見は好感を持たれやすいですが、現実として、労基法に反する会社が多数存在しているということであれば、そもそも労基法が現代にそぐわないということかもしれません。
単に形式的に労基法に反することを徹底的に叩くのではなく、本来的に適正な労働とは何で、不適正で違法とすべき労働は何なのかを議論した上で、労基法を始めとする労働法を再構築していく必要があるのだろうと思います。
いずれにしましても、労働問題には、個々の事例に現れた問題点だけでなく、社会全体の在り方により大きな影響を受けていますが、少なくとも、今回のような事件をきっかけにして、一つ一つ改善できるところが改善されていくといいですね。
次稿では、僕自身のブラック労働との向き合い方について、体験談をお話してみたいと思います(個人的な体験談であって、法的見解ではありませんし、ともかく労基法違反の会社は許さないという意見の方は読まれない方がいいかもしれませんが)。
※本記事は分かりやすさを優先しているため、法律的な厳密さを欠いている部分があります。また、法律家により多少の意見の相違はあり得ます。