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箱根駅伝では、見たくなかったものがある

齋藤薫美容ジャーナリスト・エッセイスト

近頃は、いわゆる大ブレーキみたいなものも、トレーニングが日進月歩で科学的になりつつあるせいかめったに見られなくなった。一方で、超高速レースになった分だけ実力差は広がっているのか、“繰り上げスタート”も一気に数が増えて、逆にその悲惨さは緩和された。あまりの繰り上げの多さで、着順のわからなくなったゴールに少々の気持ち悪さを感じはしたが。

でもそういうことはいいのだ。テレビ局が、繰り上げスタートをドラマにしたがっていることくらいはみんな知っていたけれど、確かに繰り上げで流される涙は、悪意からではなく、みんな見たい。一生懸命の結果流された涙は、本人たちにとっても将来かけがえのないものになることを世間も知っているから。

じゃあ、箱根駅伝で“見たくないもの”があるとしたら、それは一体何なのか?

たとえば準優勝しても、お葬式のような沈痛な表情を強いられている学生たちの姿である。

常勝校が、優勝できなければ2位でもビリでも一緒と思ってしまうのは、よくわかる。しかし、あれだけ健闘した学生たちが、死にそうに苦悶しているのを、私たちは見たくないのだ。おそらくは声も出ないほどダメージが大きいのだろうが、あんなふうに23キロ走ってゴールした同志を、労えられないほど絶望させてしまう駅伝を見るのは、何だか淋しい。

視聴者なんて勝手なもの。見たいものしか見たくない。とりわけ箱根駅伝では、ひたすら感動したいし、ひたすら清々しくなりたいわけで、だから「残念だけどみんな頑張ったよね」と、お互いを讃え合う姿をこそ見たいのであり、そういう悲痛なまでの勝ちへのこだわりは見たくないと思ってしまうのだ。新年なんだから、“人間って素晴らしい”“若さって素晴らしい”“仲間って素晴らしい”って、すべての瞬間思いたくて箱根を見る、我がままな大人が大多数なのである。

だからポマード(今、そんな商品名は存在するのか?)で、髪をセンターパートにびっちりとなでつけた監督が、脚に違和感を感じて少しだけペースの落ちた選手に、「足なんかどうでもいい、ともかく区間賞を獲れ」とすぐ後ろからマイクで励ますシーンなども、じつはあまり見たくはないのかもしれない。

もちろんそれこそが、戦う人間のありのままの姿なのだろう。箱根ならばこそ、そんなキレイごとじゃ済まされない。最善を尽くせば勝利できなくたってかまわないよ……なんていうヤワな根性論など入り込めないのはよくわかる。しかしそれも程度問題。いや、程度ではなく、ニュアンスの問題なのだ。もっと言えば“バランス感覚の問題”なのである。

同じように優勝できずに悔しがったり、泣いたりしていても、根底にあるマインドの違いはそこはかとなく伝わってくる。同じ悔し涙でも、見たい涙とあまり見たくない涙のタイプがあるということなのである。

オリンピックで銀メダルを獲っても単純にそれを喜べない、大いに悔しがる選手は少なくないが、そこにも明らかに2種類あって、銀メダルしか獲れなかったことに、悔しさどころか怒りすら覚えている銀メダリストを、私たちは何人も見てきた。そしてやっぱり同じ淋しさを感じてきた。

メダルはメダル。ともかくメダル獲得を喜びたい視聴者は、その違いをハッキリ見極め、9割が悔しさでも、残りの1割にメダルを獲れた安堵のような喜びがのぞく銀メダリストを見たいと思っている。逆にそういうプラスの要素が微塵もない、無念千万、憤懣やるかたない表情の準優勝者を見るのは、けっこう辛んどいものなのだ。

“メダルも逃した4位の憤り”とは明らかに違う“2位の憤り”は、プライドの高い、ある種高圧的な敗北にも見えるから、視聴者は勝手に悲しくなるのである。

テニスとかサッカーのように、二者が勝ちか負けかを競うスポーツで負けるのとは、ちょっと意味が違う。下位が山ほどいるスポーツなのに、1位になれなかったことをそこまで落胆するのは、下位のものたちへの配慮が足りない? なんて思ってしまうからこそ、何だか心にしこりを残すのだろう。

1対1での負けなら、どれだけ嘆き悲しんでも、どれだけ苛立ってもいい。でも準優勝と銀メダルは、ちょっとでいいから喜んでほしいのだ。ほんの10%でも5%でもいいから。

美容ジャーナリスト・エッセイスト

女性誌編集者を経て美容ジャーナリスト/エッセイストへ。女性誌編集者を経て独立。女性誌において多数の連載エッセイを持つ他、美容記事の企画、化粧品の開発・アドバイザーなど幅広く活躍。『されど“男”は愛おしい』』(講談社)他、『“一生美人”力 人生の質が高まる108の気づき』(朝日新聞出版)、『されど“服”で人生は変わる』(講談社)など著書多数。

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