伝えていかねばならない真実~「特攻の母」鳥濱トメの物語
「MOTHER マザー~特攻の母 鳥濱トメ物語~」
偉大なる「特攻の母」トメさんを、私が舞台で演じ始めて6年になる。
お国のため、命を懸けて飛び立っていった特攻隊の青年兵士たち。
いま、私たちが平和でいられること、生きていられる意味を考えるとき、忘れてはならない大切な物語だ。
早いもので、終戦から69年。
もうあと5年、いや10年もすれば、戦争を実際に体験した人はいなくなる。語り部と言われる人たちも。
戦争のことを伝えたい、本当にあったことを忘れさせてはならない、そう思った私は、知覧を訪ね、当時の特攻を知る人たちや語り部の人たちに会い、取材し、エアースタジオの仲間と、トメさんと特攻隊員のお芝居を作った。監修にはトメさんのお孫さんである鳥濱明久さんについていただいた。
特攻隊を見送ったトメさんの思いは
太平洋戦争末期、大東亜戦争の最中、鹿児島の知覧飛行場は、特攻隊の出撃地に選ばれた。
その知覧で富屋食堂を営んでいたのが鳥濱トメさんだ。
彼らが飛び立つ最後の日まで、特攻隊員をあたたかく迎え、お世話したお母さん。
もともとは田舎町にある、ごく普通の食堂だった富屋食堂が、昭和16年(1941年)に知覧飛行場が完成してからすぐ「軍の指定食堂」になった。
あたたかく分け隔てない人柄だったトメさんは、最初、「おばさん」と呼ばれていたそうだが、だんだん「お母さん」と呼ばれるようになったという。
トメさんと若き青年兵士たちの交流がだんだんと深まるなか、昭和19年(1944年)、「神風特別攻撃隊」が編成された。彼らは、一兵士から特攻隊員になった。
出立の命が下れば、二度と生きては帰れない。
トメさんは、そんな「息子たち」の悩みを聞き、なだめては励まし続けた。
日本のため、家族のため、そして日本の最後のプライドのため。
誠の忠誠心を示すため、特攻隊の彼らは知覧から飛び立ち、沖縄の地でたくさんの命が散った。
特攻隊が最後に見た景色
トメさんを演じるにあたって、知覧や、薩摩半島の南端、開聞岳を訪れた。
特攻機の滑走路は、今は田んぼ道になっていた。「ここから何人もが……」と、とてもせつない気持ちになった。
知覧を飛び立った特攻隊は、開聞岳を越え、沖縄を目指す。
見送る人々にとって、彼らの生きている最後の姿を見られるのはこの開聞岳までであり、特攻隊員にとっては、最後に見る景色。
彼らは、どんな思いで、この山を、海を、景色を見たのだろうか。そのとき、何を思っていたのだろう。
そして何人もの「息子たち」を見守り、見送ったトメさんや残された家族の悲しみはいかほどだっただろう。
トメさんは、戦後、特攻隊員を供養するために、飛行場跡で拝んでいたという。
知覧に「特攻平和観音堂」ができたのも、トメさんの思いからだった。
そんなトメさんの遺志を継ぎ、お孫さんである鳥濱明久さんが、富屋食堂を特攻隊員の記念館として残し、経営するかたわら、語り部として全国をまわり、特攻隊の物語を伝えている。
■トメさんの足跡(2012.7.4)
二度とこのような悲劇を繰り返してはならない。二度と戦争を起こしてはならない。
戦争の怖さや、今ある平和のありがたさを感じてほしい。
そのために伝えていかねばならない、風化させてはならない本当の真実。
トメさんを演じ、伝え続ける
2015年、戦後70年を迎える。特攻で散っていった世代と同じ年頃の若い人たちに、たった70年前に、この日本で実際にあったこと(特攻の真実)を知ってもらいたいとの思いから、そこに向けた「マザープロジェクト70」も立ち上がった。全国の中学、高校、大学などでの地方公演を目指し、日々、活動している。
特攻隊員の世話をし、彼らを見送った当時のトメさんとほぼ同年代から、トメさんを演じ始めた。
そんな私には、当時トメさんが特攻の彼らを世話したときの気持ちや、戦後に米兵たちを知覧に迎え入れたときの胸の内もよくイメージできる。トメさんとともに年を重ねているからだ。
私は決してトメさんにはなれないが、後の私たちの平和のために戦ってくれた特攻隊の物語を、お芝居を通じて、全国をまわり伝えていきたいと思っている。
身体が動くかぎり、トメさんを演じ続けながら……。
■鳥濱トメとは
■鳥濱トメと富屋旅館について
■舞台「MOTHER マザー~特攻の母 鳥濱トメ物語」について