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高校時代にフジ版『24時間TV』を企画!? 『ごっつ』『夢逢え』を作った“伝説”のテレビマンを偲んで

てれびのスキマライター。テレビっ子
『ごっつええ感じ』DVD。初期『ごっつ』のコントほとんどは星野による演出だという

元・フジテレビのプロデューサーの吉田正樹氏(以下敬称略)のツイートによると、『ダウンタウンのごっつええ感じ』を筆頭に様々な名番組を手がけた星野淳一郎が亡くなったという。

星野淳一郎は「伝説」と呼ぶに相応しいテレビディレクターである。

この参列者を見るだけでも大きな功績のあった人物であったことが分かる。にもかかわらず、ほとんどそれが報じられていないのは、あまりにも寂しい。

もともと、あまり表には出ず、本人のインタビューなどもほとんど残されていないため、視聴者である僕らは、彼がどのような仕事をしてきたのかを知ることは難しいが、わずかながら伝えられている部分だけでも、そのスゴさを垣間見えることができる。拙著『1989年のテレビっ子』でも可能な限り詳しく書いたが改めて振り返ってみたい。

学生時代の偉業

まず最初に星野淳一郎がテレビ史に名を刻むのは、まだ彼が学生時代のことだ。

1980年代初頭、「マンザイブーム」を巻き起こした『THE MANZAI』(フジテレビ)。

星野はこの番組に、学生アルバイトとして参加している。

当時、演芸といえば、中高年のための娯楽というイメージが強かったが、『THE MANZAI』は若者に熱烈に支持された。

その大きな要因のひとつとして挙げられるのは客席だ。そこには若者が集っていた。同じ世代の人たちが集まり熱狂している。その様を見てどんどんと伝染していったのだ。

番組プロデューサーの横澤彪はこう証言している。

横澤「大学の落語研究会とかプロレス研究会とか、笑いに理解があって賑やかにしてくれそうなところに電話して、見に来てもらってました」

出典:山中伊知郎:監修『テレビお笑いタレント史』

「笑い屋」のおばさんを雇うのをやめ、大学のサークルに電話して、約400人の学生たちを集めたのだ。

そのアイデアこそ、実は星野が出したものだった。同じく横澤は吉田との対談でこのように語っている。

横澤: 『THE MANZAI』でスタジオに呼ぶお客さんをどうしようかという時に、あいつ(星野)にはアイデアがあるわけ。例えば、大学のお笑い系サークルに電話をして、ギャラがいるのかいらないのか、来るのか来ないのかを聞いてみましょうよ、なんてことを言い出すんです。『THE MANZAI』で学生にターゲットに当てたのも、彼の意見からですよ」

出典:吉田正樹:著『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ』

フジ版『24時間テレビ』の伝説

さらに日本テレビの『24時間テレビ』に対抗してつくられたフジテレビ版の24時間テレビ『FNSテレビ夢列島』(現:『27時間テレビ』)の第一回の総合演出も星野淳一郎が務めている。その時の“伝説”を『ごっつええ感じ』などの構成作家として星野とともに仕事をした高須光聖が鈴木おさむとの対談の中で明かしている。

高須: 『27時間テレビ』の前身の『FNSテレビ夢列島』ってあったやんか。

鈴木: ありましたね。

高須: 星野さんってあの番組の初回を仕切ったんやけど……当時二六歳やねんて。

鈴木: ええええっ!?

高須: そもそもあの企画を思いついたのが星野さんで、日本テレビの『24時間テレビ』を観て、チャリティもええけど、テレビは別もこともやらなあかんやろと。それで、「フジテレビは笑いだけで作るべきだ」って企画書を書いてん。でな……それが高校生の頃

鈴木: マジっすか!?

高須: 星野さんって高校生のときにテレビ局でバイトしてたから、その企画書を当時プロデューサーだった横澤(彪)さんに見せたらしいねん。その時はそれで終わったんやけど、フジテレビに入社してディレクターをやってたときに、横澤さんに呼ばれて「お前が高校生の時に出した企画だけど、あれやるか?」って。それが二六歳のとき。

鈴木: すげえ……。

高須: 二六歳でスタッフやタレントと一から交渉して、あんな大きな番組を作るなんて考えられへんよな。山ほどある各コーナーの台本一人でまとめたらしい。本人は「俺はテレビが好きな変人だから」って言うけど、そんなレベルちゃうやろ!(笑)

出典:『Quick Japan』Vol.88

この企画書を高校時代に出したことについては、前出の吉田との対談で横澤が「妄想でしょ」と否定しているため、真偽は不明だが、彼が中心となって企画し、作ったことは紛れもない事実だ。

横澤: 二四時間を一つの番組として考えたらカッコいいでしょ。そしたら営業が猛反対してね。番組を沢山作らないとスポットCMを売り込む隙間がなくなってしまうじゃないかというわけ。そこで一日のCM時間を全部計算して、その合間にコーナーを作ることにしたんです。その時に台本を作ったのが、星野淳一郎と山縣慎司でね。企画書の件は妄想だったけど(笑)、CMとCMの間に本編があるなんて、実に画期的な発想でしたよ。

出典:吉田正樹:著『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ』

台本の形もそれに合わせて作られたという。僕が、星野の一番弟子ともいえる小松純也にインタビューした際、このように語っていた。

小松: (星野さんは)ずっと横澤(彪)さんの懐刀でやっていて。フジテレビ版の『24時間テレビ』の最初の企画者です。一時期までフジテレビの『27時間テレビ』の台本って、1ロール(CMとCMの間)が1ページに入るようになっている横長の本になってたんですけど、そういう仕組みとかフォーマットまで全部作った

――へえ!

小松: 僕とは全然違って、几帳面なものづくり、丁寧なものづくりをする人。いわゆる人様に通用する番組を、客観性を持って作るということを、あの方に教わりましたね。おしゃれなものを作るセンスも持っている。『夢で逢えたら』のオープニング映像ってCGとか実写を融合したPV的なものでしたけど、そういう新しいものをサラッと作っちゃう。

出典:「文春オンライン」

星野淳一郎のテレビ論

ここで語られているように、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコが共演したユニットコント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)は、星野淳一郎と吉田正樹が二人三脚で作り上げていったものだ。

その後、星野は『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)を手がけることになる。

ダウンタウンが猛烈な勢いで自分たちの笑いを提示し、天下を獲っていった番組だ。

星野を「神様みたいな人」という高須はこのようなエピソードを語っている。

高須: 俺な、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)の頃、星野さんにいつも文句言ってたんよ。もっと目立つような激しいことやろうって。でも星野さんはずっと「ブームになったら終わりだ」って言うて、当時の俺はその意味がわからへんかってん。でもあの人はテレビがどういうものか見えてたから、俺らが勢いづいて騒いでるのをきっちり押さえてくれたんやと思う。

出典:『Quick Japan』Vol.88

『ごっつ』の途中でフジテレビから離れた星野は、『ウッチャンウリウリ!ナンチャンナリナリ!』(日本テレビ)や『ウンナンの気分は上々。』(TBS)などにかかわった後、再び吉田に呼び戻され『笑う犬の生活』(フジテレビ)などを手がけていった。

小松純也はこのように語る。

――星野さんに言われて印象的だったことは?

小松 「視聴率はお前と視聴者の距離だ」って言われて、そうだな、と思いましたね。いわゆる、誰のために番組を作っているのかということ。制作者と出演者の距離感はどうあるべきかとか、そういうことも含めて教わりましたね。(略)例えば演者が何をやろうかって演じ方を考えている時には話しかけちゃダメ。そういうデリカシーっていうのは、ディレクターの大事なスキルだと思います。演者のやりようの工夫、創意をめぐらせるストロークを作ってあげる。だから芸人と仲良くなってこんな内輪話が撮れたとか、収入がいくらって言ったとか、そんなことまでテレビで言わせる関係性を作る制作者っていうのはどうかなと。本当にやめてくれよって思います。

――距離感が大事なんですね。

小松 芸人さんと飲みに行って「面白いことやりたいな」ってくだをまくのが仕事じゃないと思うんです。その人がどうやったら視聴者に面白く届くかを客観的に考える。その人を活かせる企画を真摯に考えるのがテレビマンのすべきことなんじゃないかと。それは星野淳一郎さんに学んだことですね。

出典:「文春オンライン」

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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