相次ぐ北朝鮮からの‘汚物風船’…韓国は「紛争の常態化」を防げ
先月末から韓国に飛来し続ける朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)発の「汚物風船」。金正恩氏の妹・金与正氏は「誠意の贈り物」と茶化すが、韓国側の対応のボルテージは上がりつつある。今後はどうなるのか。いくつかのポイントを整理する。
◎再び720個が飛来、器物への被害も
今月1日晩、韓国・京畿道(キョンギド)に住む筆者の携帯電話にメッセージが届いた。
「安全案内」というタイトルの下には「北韓が対南汚物風船を再度浮揚。国民は積載物の落下に注意し、汚物風船を発見時に接触せず軍部隊や警察に通報するようにしてください」と本文が続いた。
浮揚とはずいぶん洒落た表現であるが、要は北朝鮮が飛ばしたということだ。先月28日に続き二度目である。夜が明け韓国政府がようやく把握できたその数は約720個。前回と同様、韓国の広範囲に「汚物」を運んだ。
中には、駐車中の車に落ちたものもあった。割れたフロントガラスの写真はSNSやニュースで拡散され「前回よりもひどい」という印象を社会にもたらした。なお、けが人はなかった。
◎韓国政府は対応に「本腰」
2日、北朝鮮の国防省副相は朝鮮中央通信に発表した談話の中で、5月28日から6月2日の明け方にかけて「ちり紙ゴミ15トンを各種気球3500個を用い」を撒布(散布)したことを認めた。
さらにその目的が「散らばった紙の掃除がいかに気分が悪く労力がかかるものなのかを体験させること」にあったとした。その上で、暫定的に撒布を中断すると明かした。
このタイミングが絶妙だった。
韓国政府は談話に先立つ2日午後、NSC(国家安全保障会議)常任委員会を開催し「汚物風船」への対応策を協議するとしながら「拡声器放送の再開」に言及していたからだ。
これは南北軍事境界線に近い所から大型スピーカーを用い、北朝鮮に宣伝放送を行うものだ。その内容は歌謡曲も含め韓国の自由で豊かな体制の優位性を強調するものや、脱走の呼びかけもある。
文字通りの「心理戦」で、前線の兵士への影響が大きいとされ、北朝鮮が最も嫌うものの一つだ。
韓国側がいわば必殺技とも言えるこのカードを取り出すや、すぐに北朝鮮が矛を引っ込めた形だ。
だが3日、韓国はさらに追い打ちをかける。
今度はNSCの実務調整会議を開催し『9.19南北軍事合意書(以下、合意書)』の効力停止を決め、尹錫悦大統領にこれを報告した。4日の国務会議(閣議)で採択される見通しだ。
◎『9.19軍事合意書』の効力停止がもたらすもの
合意書は、18年9月に平壌で韓国の国防部と北朝鮮の人民武力省(当時)の間で結ばれたものだ。
6条22項からなり、ひと言にまとめると「南北間のあらゆる敵対行為を全面中止」する内容だ。陸・海・空にまたがる禁止行為を細かく規定した。
しかし、その全てが実現した訳ではなかった。板門店の非武装化や、軍事境界線の最前線の哨戒所(兵士詰所)の一部撤去は行われたものの他は現状維持にとどまった。
背景には19年2月の米朝首脳会談の決裂が大きく作用した。合意書の履行を管理すべき南北軍事共同委員会の設立にはついに至らなかった。
では合意書は意味がなかったのか。そう断言できないところに難しさがある。いずれにせよ、文在寅政権の時代に南北の軍事的衝突が無かったことだけは確かだからだ。
実は合意書はすでに、半ば死文化していた。
昨年11月、北朝鮮の軍事偵察衛星発射に伴う南北間のやり取りの中で、韓国は1条3項で定めた飛行禁止区域の効力停止を発表した。北朝鮮も「同合意により中止した全ての軍事的措置を即時回復する」と受けて立っていた。
今回の韓国側の決定により、南北双方が改めて合意書の無効化を確認した形だ。
それでは何が変わるのか。
韓国メディアでは「拡声器放送をいつでも再開できる」点に重きを置いている。つまり、韓国軍は‘スタンバイ’ということだ。
言うまでもなく通常兵器の能力差は圧倒的に韓国が有利である。合意書の停止により得るものは韓国軍の方が多いだろう。
◎9年前の「撃ち合い」
こうなると朝鮮半島ウォッチャーの脳裏には、15年8月の出来事が浮かぶ。当時、南北軍事境界線付近で北朝鮮が設置した地雷を踏んだ韓国軍兵士2人が負傷したことで、約一週間後に韓国は拡声器放送を再開した。
これに怒った北朝鮮が「(爆破は)韓国の自作自演」と受けて立つ。その上で拡声器放送の中断と撤去を求める警告状を発表し、受け入れられない場合には「無差別的な打撃戦に乗り出す」としたのだった。
当時の朴槿惠(パク・クネ)政権も一歩も引かなかった。そしてついに北朝鮮は韓国側に高射砲1発と曲射砲3発を打ち込んできた。
さらに「48時間以内に拡声器を片付けない場合には戦時作戦を開始する」と警告し、金正恩氏が前線に準戦時体制を宣布した。韓国側もそれならばと、自走砲を用い北側に29発の砲弾を打ち込んだ。
この時に引いたのは北朝鮮だった。
砲撃の2日後に対話を提案し板門店での43時間の会談後に「遺憾の意」を表明する。韓国側も拡声器放送を止めたが、北朝鮮が遺憾の意を明かすことは異例で、客観的には韓国側の完全勝利だった。
当時、北朝鮮は戦う準備ができておらず、ベテラン政治家が韓国に下手に出て事を収めたという話もある。さらに金正恩氏にとっての「初の敗北経験」が、その後の核開発への傾倒を生んだとする専門家もいる。
◎韓国政府は静観?
「汚物風船」のきっかけが韓国の市民団体が北朝鮮に向けて飛ばすビラにあることは、既に北朝鮮側も明らかにしている。
北朝鮮側は2日の談話の中で、再びビラ撒布が行われる場合には「100倍のちり紙と汚物」を送ると警告している。
今後のエスカレートを止めるためには、韓国政府がビラ撒布を取り締まればよいのだが、そうはいかない事情がある。
昨年9月、韓国の憲法裁判所は『南北関係発展に関する法律』の一部に違憲判決を下した。これによりビラ撒布を一律に禁止する根拠が失われた。
韓国政府は代替案として、なるべく権利を侵害しない形でビラ撒布を制限する措置を作る必要に迫られたが、今日まで実現していない。
そうこうする内に、ビラ撒布が再び活性化しつつあることが、一連の事態の背景になる。南風が吹く4月半ばから、ビラは北朝鮮に届いていた。
当事者は意気軒昂だ。韓国メディアによく登場する市民団体の代表パク・サンハク氏は3日、韓国YTNとのインタビューで、金正恩氏の「汚物風船」に対する謝罪がない限り、再びビラを飛ばすことを明かしている。
なお現在、韓国政府の対応は「ビラ撒布の現場を目撃した際には穏便に制止する」程度だ。これはパク氏とは異なるビラ撒布を行う団体の関係者に聞いたものだ。
韓国政府も同日、「表現の自由」を根拠に取締り問題にアプローチしていることを明かしている。微温的な対応だ。
◎「紛争の常態化」をどう防ぐか
この後の展開はどうなるのか。
南北双方が砲を撃ち合った9年前を例に、そこまではチキンゲームを続けても問題が無いとし、今の緊張状態を許容すべきなのだろうか。
断じて「NO」である。
少なくとも韓国政府は今すぐに、これ以上一歩も事態がエスカレートしないよう対処すると同時に、北朝鮮に緊張緩和のための実務協議を呼びかけるべきである。
2日、米韓の国防相はシンガポールで会談する際、北朝鮮による「汚物風船」が停戦協定に違反していることを確認した。
これは現状が「北朝鮮がゴミや肥料を送りつけてきた」という笑い話で済む状況を遙かに超えていることを意味している。
事態を放置する場合に、南北の衝突が15年8月の水準を超えないとも限らない。
金正恩氏は「リベンジ(復讐)」の意があるだろうし、二度にわたって風船の飛来を許した韓国側にも「次はこっちの番」という意識があるだろう。
さらに、南北首脳にとってこの衝突は不利益よりも利益をもたらすと考えられる点も見逃せない。
金正恩氏にとっては「これ以上は同族・同質関係ではなく交戦国関係」とした昨年末の韓国への絶縁宣言を国内に周知させる、またとない機会になる。
一方の尹錫悦氏にとっては、総選挙での大敗と支持率低迷にあえぐ中で世論の矛先を分散させるきっかけになり得る。まさに南北伝統の「敵対的共生関係」である。
そして何より恐ろしいのは、こんな緊張関係に慣れてしまうことである。「紛争の常態化」が戦争を招く例は枚挙に暇がない。朝鮮戦争が始まった74年前もその傾向があった。
強者である韓国政府には、事態の沈静化を図ることが何よりも求められている。尹大統領は早急に平和のメッセージを出すべきだろう。