日本の「リベラル」はどこがうさんくさいのか?
自分の妻や子どもを殴りつけながら、「暴力はやめましょう」とか「平和がいちばん」と他人に説教するのはどうでしょう? アタマがおかしいか、とんでもない偽善者だと思うのではないでしょうか。
これまで繰り返し述べてきたように、日本社会の恥部である正社員と非正規の格差は身分差別以外のなにものでもありません。なぜこういい切れるかというと、この制度には「アカウンタビリティ(説明責任)」が欠落しているからです。
「同じ仕事をしているのに、なぜ自分の給料はあのひとの半分なのか?」と問われて、相手が納得する回答ができれば「アカウンタブル(説明可能)」です。「お前は正社員じゃないんだから当然だ」と怒鳴りつけたり、「そんなこといわずにオレの立場もわかってくれ」と泣き落とすのはアカウンタブルではありません。説明できない格差は人種や性、国籍や宗教、身分などの差別から生まれます。基本的人権を尊重するリベラルな社会は、「説明できないこと」を極力減らしていかなくてはなりません。
オリンピックの舞台で一流のスポーツ選手が自己の限界を超えるまで頑張るのは、公正なルールによって競争が行なわれ、結果がメダル(栄誉)という報酬に直結するからです。審判がデタラメだったり、試合の途中でルールが変わったり、自分より下位の選手が金メダルをもらうような競技なら、誰も真面目にやろうなどと思わないでしょう。
最近は「スゴイぞ、ニッポン」がブームになっているので「日本的雇用は世界一だ!」と思っているひとがいるかもしれせんが、データで見ると日本の労働者の生産性は主要先進国で20年連続最下位で、アメリカの半分しかありません。従業員のやる気を国際比較する「エンゲージメント指数」では、日本は調査対象28カ国のうち、やる気度31%でダントツの最下位です(ちなみに1位はインドの77%)。客観的に見れば、日本のサラリーマンは利益を生まず、やる気もなく、ただ長時間労働で疲弊しているだけなのです。
なぜこんな悲惨なことになるかというと、多くのサラリーマンが会社に対し、責任と権限が不明確で、仕事の結果が公正に評価されず、リスクをとって失敗すると二度と挽回できないと感じているからでしょう。新卒から定年までの四十数年間を、下を向いて大過なく過ごすしかないのなら、そんな人生が楽しいわけはありません。
だったらどうすればいいのでしょうか。それは、いますぐ差別をやめることです。
日本的雇用は正規/非正規や親会社からの出向/子会社のプロパー社員の「身分差別」、新卒一括採用・定年制による「年齢差別」、本社採用・現地採用の「国籍差別」など重層的な差別で成り立っていますが、これは法律で強制されているわけではありません。どのような雇用制度を選ぶかは経営者と労働者が話し合って決めることですから、「リベラル」を標榜する会社なら労使が協力して差別のない労働環境を実現すればいいのです。そのうえで旧態依然たる日本社会や、それを改革できない政治を批判するのなら多くのひとが耳を傾けるでしょう。自分たちが「差別」しながら「差別反対!」を叫んでも、誰からも相手にされないのは当たり前です。
本誌連載をまとめた新刊『「リベラル」がうさんくさいのには理由はある』(集英社)で、そんな話を書きました。「リベラル」が嫌いなひとにこそ読んでほしい本です。
『週刊プレイボーイ』2016年5月30日発売号
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