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知られざるハワイ、移民がもたらした文化・経済・精神

伊藤寧章ハワイ発「Made in Hawaii TV」プロデューサー
(提供:ハワイズプランテーションビレッジ)

 ハワイといえば皆さんどんなイメージをお持ちでしょうか。日本人も多く訪れる世界的な観光地で、青い海、ビーチ、ヤシの木、まさにバケーションという人がほとんどだと思います。

 常夏だと思われがちですが、冬の間は肌寒い日も多く、地元の人たちはここぞとばかりに冬っぽいファッションを楽しんだりもします。年間を通して安定した気候で、夏は日差しは強いものの、日陰に入れば気持ちよく過ごせます。

 近年、夏の暑さが厳しい日本から訪れる人たちの中には「ハワイは避暑地だね」という人もいるくらい過ごしやすいのです。

 気候的にも恵まれた観光地のハワイですが、実は昔から移民が多く、移民文化の上に現在のハワイの基盤があると言っても過言ではありません。各国の移民文化が混じり合い、年月をかけて現在はハワイの文化となっています。これはハワイ以外の人には意外と知られていない事実でもあります。

 昨今よく耳にする”移民”という言葉はネガティブなイメージが先行してしまいますが、”不法移民”と”移民”は全く違うということを意識した上で、ハワイの移民の歴史についてお話ししたいと思います。

ハワイの経済を支えた移民のルーツ

 私は普段ハワイの様々なスポットや人、イベントなどを紹介するハワイの情報番組「Made in Hawaii TV」を制作しています。

 少し前にハワイズプランテーションビレッジというところでガイド付きのツアーの撮影をさせてもらいました。1800年代以降の製糖業が盛んだったハワイの村を再現している施設で、移住後サトウキビのプランテーションで厳しい労働をしていた各国の移民の暮らしを垣間見ることができ、ハワイの移民の歴史について詳しく知ることができます。

 まだアメリカの州になる前のハワイ王国時代、製糖業の労働力確保のためにハワイは移民を迎え入れることを決定します。ハワイには約200年の間に12か国の人種が移住を試みましたが、その中の8つの国の人種が定住し、プランテーションで働き、後のハワイ経済を築きました。

 移住を決断したどの国の移民の方々も貧困に苦しんでおり、裸足でハワイへ渡ってきた人たちもいたのだとか。まして当時は飛行機ではなく船での渡航なので、その苦労は計り知れません。途中で亡くなってしまった方々もたくさんいたそうです。

ハワイへの最初の移民は中国人

 最初にハワイへやってきたのは中国からの移民でした。彼らはハワイへ米を持ち込み、二毛作を行います。ハワイでお米が食べられるようになったのはこの時期だということになります。

 また、漢方薬を持ってきたり、ハワイの果物などを利用して薬を作って人々の病気を治していました。彼らの薬によってハワイの多くの子供達の命が救われたそうです。

“ハワイの音”を持ち込んだポルトガル人

 次にポルトガルからの移民がハワイへやってきます。自国の地震と津波の被害から避難するために国を出たのですが、近隣のヨーロッパ諸国では黒死病(ペスト)が流行っていたためにハワイにしか逃げられなかったそうです。船で半年かかってハワイに辿り着きました。

 現在ハワイのスイーツとして大人気の「マラサダ」という揚げ菓子はポルトガル移民がハワイに持ち込んだもの。そして、ハワイには欠かせないウクレレも彼らが持ち込みました。今ではウクレレを見ると誰しもがハワイを思い浮かべるのではないでしょうか。

 彼らは他の移民に比べて英語の習得が早かったので、サトウキビの収穫の仕事から、プランテーションで働く労働者を馬に乗って監視する役職に就くようになりました。

(提供:ハワイズプランテーションビレッジ)
(提供:ハワイズプランテーションビレッジ)

ハワイと日本を繋げた日本人「元年者」

 1868年、明治元年にハワイへ移住したのは日本人です。のちに多くの日本人が移住しますが、最初に移住した彼らは「元年者」と呼ばれています。

 特に多かったのは広島、山口、熊本からで、飢饉やコレラから逃れてハワイへ移住しました。彼らは石油をハワイへ持ち込んだため、この時から屋内の台所で料理ができるようになりました。

 長屋に数世帯の家族が住み、あえて仕切りのドアを作らずにみんなで助け合いながら共同生活をしていました。自分たちが飢饉を経験していたため、子どもには飢える経験をしてほしくないと、どの家の子供にも同じように食事を与えていたそうです。

1900年にハワイへ渡った沖縄人

 1900年、飢饉から逃れるために沖縄から移住者がやってきます。彼らの子孫は今でも「オキナワン」とハワイで呼ばれています。

 プランテーション事業も成長し、1世帯に1軒の住宅が与えられるようになり、水道もつきました。当時は琉球王国から沖縄県になっていたため、沖縄の人たちは日本人として移住したという証に、各家庭に日本の天皇一家の写真を飾らなくてはいけませんでした。

 プランテーションで沖縄の人たちが経営していた小売店は各国の移民の方たちが日用品を買い求める場所となっていて、現在ハワイのスーパーになっているお店もあります。

コナコーヒーを生んだプエルトリコ人

 ハリケーンによってハワイへ避難してきたのはプエルトリコ人。持参したコーヒーを当時のハワイの王族に飲んでもらったところ、王族が気に入ったことがきっかけで、ハワイ島のコナ地区でコーヒーを作ってほしいと依頼されました。それが世界3大コーヒーのひとつであるコナコーヒーの誕生です。日系人の方の多くもコーヒー農園で働きました。

 また、コーヒーの木の風よけのために植えられたのがマカダミアナッツの木。日系3世のマモル・タキタニ氏がマカダミアナッツとチョコレートの組み合わせを開発。ハワイ土産の大定番であるマカダミアナッツチョコレートの「ハワイアン・ホースト」を創業しました。

 その後も、宗教的な理由の亡命で韓国から、新しい仕事を求めてフィリピンから…と、たくさんの人がハワイに移住しました。

 ざっとご紹介しただけでも、ハワイで思い浮かぶものが移民による文化から生まれたものだったと分かるのではないでしょうか。

過酷な労働のなか移民を支えたカウカウ

 自国での貧困や災害から避難して移住してきた人たち。夢に見ていたハワイでの暮らしは実際にはとても過酷なものでした。

 プランテーションでの暮らしは月曜から土曜までの週6日間、朝6時半から夕方4時半まで男性はプランテーションでサトウキビの収穫をします。病気やけがをしても休むことはできず、月15ドルのお給料のうち、7ドルは家賃として徴収されます。

 女性はサトウキビの葉を一日に500枚もむしり、子供も働きます。早朝からの厳しい労働環境の中で、唯一の楽しみはお昼のお弁当でした。カウカウとはハワイの方言(ピジン語)で食事を意味します。どの国からの移民も「カウカウティン」という缶の容器に詰めたお弁当を仕事に持っていきました。

(撮影:すべて筆者)
(撮影:すべて筆者)

プランテーションで働く移民のお弁当の中身とは?

 先住民であるハワイアンの他に、各国からの移民が食べていたお弁当の中身は一体どんなものだったんでしょうか。

ハワイ:干した鯵とタロイモ

中国:エビの炒め物とチャウファンという麺

ポルトガル:パンとスープ

日本:鮭と金時豆、白いご飯に梅干しとたくあんが2枚

沖縄:ゴーヤチャンプルー、島豆腐

 ハワイの人のお弁当はとてもシンプルであり、量も足りないことから、他の移民からおすそ分けをもらっていたそうです。プランテーションで働く移民たちは、人種に関係なく、みんなでカウカウティンのおかずを分け合ってお昼の時間を楽しんだということです。

(撮影:すべて筆者)
(撮影:すべて筆者)

ハワイのプレートランチは移民のお弁当の分け合いから

 ハワイでプレートランチを食べたことはありますか?プラスチックの容器に白いご飯とマカロニサラダ、おかずが入っているスタイルが一般的で、テイクアウトして食べることが多いハワイのカジュアルな食事です。

 ハワイグルメとして有名なロコモコ、ガーリックシュリンプ、モチコチキン、そしてステーキやマグロなどご飯によく合うおかずが多いので、日本から旅行でハワイに来ている人たちも食べやすい味です。ただしボリューム満点なのでひとつを2人でシェアしてちょうどいい場合も。

 このお弁当のようなスタイルのプレートランチは、プランテーション時代に移民の方達がおかずを分け合って食べていたことから始まったスタイルと言われています。

 番組で行った調査では、ハワイグルメを食べることを楽しみにしている人がとても多いことが分かっています。ハワイ旅行中に楽しむ食事やスイーツは、ハワイへ移住してきた移民の歴史が色濃く反映されているものが実はとても多く、日本を含むたくさんの国の人たちの文化がハワイで混じり合い、今のハワイの食や文化を作り上げていたんです。

ハワイで感じる日本

 よく「ハワイは日本人が多いから行きたくない」という意見を聞きます。日本の人たちにも人気の高い海外旅行先なので、非日常を味わいたい方はそう思ってしまうでしょう。

 しかし、私たちが海外旅行を楽しむようになる以前から、日本の人たちが移住をして、過酷な労働の中にあっても祖国を忘れないよう、食事、言葉、行事といった文化をハワイに根付かせてくれていたんです。

 ハワイでは初詣に行く人も多く、ひなまつりや端午の節句も地元の人に認知されています。日系の方も多く、日本語や日本の文化に親しみのある方も多いので、海外旅行先でも他国より少し安心感があるのも事実です。

(撮影:すべて筆者)
(撮影:すべて筆者)

移民のプライドとアロハスピリット

 様々な人種が交わり合う移民の島ハワイが発展した秘訣は、移民がお互いをRespect(尊敬する)・Adapt(適応・共有する)・Accept(受け入れる・認め合う)という意識を持ち、人種に関係なく、お互いに言葉が分からなくても助け合いながら暮らしてきた移民のプライドなのだと、ハワイズプランテーションビレッジで教えてもらいました。

 実際、各国からの移民が同じ場所で仕事をしながら、協力して暮らしていたことは世界でも珍しいことかもしれません。

 ハワイでは、友人やご近所さん、同僚なども「オハナ(ハワイ語で家族)」だとして、温かく受け入れて人助けをする人が多いです。それはハワイに根付いている他人へ敬意と思いやりを持つアロハスピリットと、人種に関わらず認め合い助け合う移民のプライドから生まれたものではないかと感じざるを得ません。

 撮影を通じて、改めて移民の文化がこんなにも今のハワイに影響があったのだと感じました。様々な国の文化を受け入れ、混じり合い、その土地特有の文化として根付いていったハワイ。

 美しい自然と安定した気候をもつ観光地である一面、先住民の文化と移民の文化の混じり合う歴史的にも興味深い場所であることを意識して旅をしてみると、ハワイの新たな魅力を発見できると思います。

情報提供:ハワイズプランテーションビレッジ

ハワイ発「Made in Hawaii TV」プロデューサー

東京都出身。在ハワイ27年。高校卒業後ハワイに移住し、Hawaii Pacific Universityを2003年に卒業。2005年アパレル会社を設立。2014年に広告代理店・TV番組運営会社「A.P.O. Entertainment Production」を設立し、日本全国のケーブルテレビ1700万世帯、ハワイ内85以上のホテルの38500客室、日本-ハワイ間のハワイアン航空機内全便で随時放送される「Made in Hawaii TV」の制作・運営を行なっている。2022には「株式会社MOA」を設立しハワイ情報プラットフォーム「ALOCO・アロコ」運営。情報&体験で日本とハワイをつなぐ。

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