小沢健二の新作『So kakkoii 宇宙』は、25年前の『LIFE』を超える最高傑作か?
2019年11月13日、小沢健二のニューアルバム『So kakkoii 宇宙』がリリースされた。ボーカルが入ったオリジナルアルバムとしては2002年の『Eclectic』以来、実に17年ぶりの作品。収録された10曲のうち、最も古い曲は2010年の「ひふみよ」ツアーで初披露された5曲目の「いちごが染まる」。また、7曲目の「神秘的」は2012年の「東京の街が奏でる」公演で初披露されていた曲だ。つまり、本作は2017年2月にシングル「流動体について」で19年ぶりに音楽シーンに本格的に復帰して以降の成果というよりも、1998年に突然姿を消して、13年ぶりに日本のオーディエンスの前に現れた2010年の「ひふみよ」ツアー以降の約10年間の集大成としてとらえるべき作品だ。
「ラブリー」や「カローラIIにのって」をはじめとする過去のヒット曲の数々を久々に演奏した2010年のツアーで、小沢健二は毎回、「僕はこの街の大衆音楽の一部であることを誇りに思います」とオーディエンスに語っていた。一時期は、もう音楽活動からは完全に身を引いて、異国の地でまったく別の新しい人生を歩み始めたように思えた小沢健二。1993年のソロデビューから1998年まで人気ポップスターとして日本で活躍していた彼は、そこから長い年月を経て、過去に自分がやっていた音楽を振り返って「大衆音楽」と定義したのだ。
「大衆音楽」とは、つまりポップミュージックのことだ。小沢健二にとってのポップミュージックとは、芸術の追求や技法の洗練である以上に、その時代にその土地で生活している人々の日々の営みに寄り添う音楽のことを意味するのだろう。《にぎやかな場所でかかり続ける音楽に 僕はずっと耳を傾けている》(「天使たちのシーン」)。《スケートリンク 君と僕とは笑う 爆音でかかり続けてるよヒット曲》(「ドアをノックするのは誰だ?」)。思えば、彼がこれまで歌詞の中で描いてきた「音楽がかかっているシーン」には、いつも人々の生活があり、街の喧騒があった。
「小沢健二の最高傑作は何か?」というのはもちろんファンによって意見が分かれるだろうが、「人々の生活」に浸透して「街の喧騒」に溶け込んだ作品、つまり彼が定義する「大衆音楽」としての到達度においては、1994年のアルバム『LIFE』と、それに続く1995年の「強い気持ち・強い愛」や「痛快ウキウキ通り」といったシングル曲であることは間違いない。ニューアルバム『So kakkoii 宇宙』は、いきなり《そして時は2020 全力疾走してきたよね 1995年 冬は長くって寒くて 心凍えそうだったよね》(「彗星」)という歌い出しから始まる。これは、小沢健二が遂に「大衆音楽家」としての歩みを本格的にリスタートさせた、その宣言なのではないか。今になって思えば、「ひふみよ」ツアーからここまでの10年間は、その準備期間だったのかもしれない。
「人々へのエンパワーメント」としてのポップミュージック
収録曲の多くで、跳ねたリズムの上空でストリングスが飛び交う、あの最も親しまれてきた90年代小沢健二のシグネチャーサウンドが鳴らされている今回の『So kakkoii 宇宙』。しかし、本作における小沢健二の視線は過去に向けられているわけではない。特にアルバム終盤に収められた2つの新曲、「高い塔」と「薫る(労働と学業)」には心底驚かされた。息を呑むほど流麗でポップな旋律と躍動するビートにのせて、いつになく譜面いっぱいに詰め込まれた言葉が、明るいビジョンを抱くのが難しくなっている現在の日本で生活する人々の営みを力強く肯定し、未来への希望まで照らし出してみせるのだ。
アルバムの最終曲「薫る(労働と学業)」で、小沢健二はこう繰り返す。《どしゃぶりの雨がくれる 未来の虹 もう少しで 何が最高かは 変わるから》《どしゃぶりの雨がくれる 未来の森 もう少しで 何がちょうどかは 変わるから》《どしゃぶりの雨に映る 未来の神秘 もう少しで 何が最高かは 変わるから》。アルバム冒頭の「彗星」でも《2000年代を嘘が覆い イメージの偽装が横行する》と歌っているように、小沢健二の現状認識は冷静で、時に辛辣でさえある。しかし、その上で彼はこの世界で生活している(「労働と学業」に勤しんでいる)人々を全面的に信頼して、「もう少しで」「変わるから」と勇気づける。
『So kakkoii 宇宙』で小沢健二がおこなっているのは、人々をエンパワーメント(力を与える)する音楽だ。ポップミュージックには、「人々の生活」に浸透して「街の喧騒」に溶け込むだけではない、もっと大きな力がある。もしかしたら、小沢健二はその力を一度信じられなくなってしまったから、1998年に日本から姿を消したのかもしれない。『So kakkoii 宇宙』を聴いた今は、そんなふうにも思えてくる。大体において小沢健二のやることやその作品は、後になってからその真意に気づくことばかりなのだ。優れたアーティストはある種のビジョナリー(予見者)だと自分は考えているが、小沢健二ほどその言葉に相応しいアーティストもいない。17年ぶりに受けたインタビュー(『AERA』11月18日号)で、彼は家族とともに再び日本に住むようになったことを明かしていた。定住者としての視座から、今後どのような作品が生み出されるのか? あるいは、来年の全国ツアーの後、またミュージシャンとしては長い沈黙期に入るのか? もちろん、先のことはまったく想像がつかない。それが小沢健二だ。