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被爆後も常におびえて暮らしていた—黒い雨浴びた8歳の少女に、長年つきまとった戦争の影 #戦争の記憶

河原剛ディレクター

日本では、戦争は遠い昔のこととなりつつある。だが、今この時も、世界各地で紛争や内戦は続いている。それらの地域から負傷した子供たちを連れて帰り、治療とリハビリを受けさせ、母国に帰す。こうした無償の人道支援活動を続けているのが、ドイツ・オーバーハウゼン市の「ドイツ国際平和村」だ。1967年に設立され、これまで60カ国4万人以上の子供たちを救ってきた。その代表ビルギット・シュティフターさん(53)が2019年7月、代表になって初めての外国として、「戦後78年のヒロシマ」を訪れた。彼女はなぜ、その場所に広島を選んだのか?3日間の滞在に密着した。

■ドイツ国際平和村

 ドイツ国際平和村が設立された1967年は、ベトナム戦争の最中だった。以来、ここで過ごした子供たちは、4万人以上にのぼる。いまも7カ国165人が治療とリハビリを続けている。村の運営資金は全て募金で賄われており、手術代や治療費、入院料などすべて無償だ。ビルギット・シュティフターさんは、大学で社会福祉を学んだ後、「開発協力に関わる仕事がしたい」と2000年に平和村の活動に参加した。2004年からは、紛争地での活動と寄付・基金関連の部署を統括。自ら現場に赴き、子供たちが置かれた状況を視察して回った。2019年、4代目の代表に就任した。できるならば、医療支援を必要としている子供たちは全員、ドイツへ連れて帰りたい。だが、協力してくれるドイツの病院の空きベッドや航空機代の節約で、村に連れて来られる子供たちの数には限りがある。「その選別が一番つらい」という。 

「世界から忘れ去られた過去の戦地が、一番支援を必要としているのです」とビルギットさん。かつて滞在していたカンボジアではインフラが整わず、内戦終結からずいぶん時間が経過した今でも、ゴミ山で生活している子供たちがいる。悪臭を放ち、ハエが飛び交う環境で暮らし、教育も受けられない。アンゴラでは、20年以上前に内戦が終ったものの、飢餓や医療施設の不足の中、いまだに助かるはずの多くの命が奪われている。

世界のメディアから忘れ去られると、国際社会からの支援が減り、経済危機に陥ってしまう。極度の栄養失調から免疫力が衰え、ささいな傷から骨髄炎を発症し、死に至る国民もいる。「だから」とビルギットさんは言う。「戦後という言葉の意味を、78年がたったヒロシマで考えたい。世界中の子供たちの支援をあきらめたくない。その希望をヒロシマで見つけたい」

ドイツ国際平和村 現在7カ国165人の子供たちが親元を離れ治療とリハビリを行っている

ドイツ国際平和村 現在7カ国165人の子供たちが親元を離れ治療とリハビリを行っている


■知らなかった「黒い雨」

 1945年8月6日、広島に世界で初めて原子力爆弾が投下された。数時間後に降り始めたのが、放射能を含んだ「黒い雨」だ。浴びた人たちはやがてがんや悪性リンパ腫、白血病などを発症し、尊い命を失った。「原爆の子の像」のモデルにもなった佐々木禎子さん(1943〜1955)は2歳の時、爆心地から1・7キロの自宅から逃げる際に黒い雨を浴びて被爆した。元気いっぱいの子だったが、小学6年生の時に首回りにしこりができ、白血病で亡くなった。80年近くたった今も、黒い雨に打たれた人たちの多くは「自分はいつがんを発症するのか?家族に遺伝はしないのか?」といった不安を抱えながら生活している。

当時、16歳の女学生が着ていた制服現在でも微量のセシウム137(放射線物質)が検出されている
当時、16歳の女学生が着ていた制服現在でも微量のセシウム137(放射線物質)が検出されている

もっと、もっと怒れ!

ビルギットさんが広島で会った一人は、2023年のG7広島サミットで首脳らに被爆体験を語った小倉桂子さん(86)だ。8歳の時に爆心地から2・4キロの自宅近くで被爆。自宅が爆風で壊された後、禎子さんと同じように黒い雨を浴びた。その不安を抱え暮らしてきた小倉さんがビルギットさんに語ったのは、次のような話だ。


「戦争により、人が直接的にやけどやけがをする恐怖もあります。もう一つの恐怖は、負傷していないと思っていた人が知らぬ間に放射能を浴び、何年もの時間が経過した後に死ぬという恐怖です」

「長い年月が経過するまで、自分は黒い雨を浴びたことを話しませんでした。その理由は、落とされた爆弾が核兵器だからです。被爆後もずっと広島にいるということで、ちゃんと結婚できるか、子供に障害はないか、最後までちゃんと育つのだろうかという不安に、常におびえていました。それは自分だけではありません。広島、長崎の被爆者のほとんどがそのことを自分の子供にすら話さないのは、通常のことなのです」

「核兵器がどれほど大きな力をもち、戦後何年も何十年も、多くの人々の命を奪うものなのかを知って、想像してほしい。これから伝えることは、いつも原点に帰ることで、とてもつらい。みんなは、なぜもっと怒らないか、悲しまないか。それはみんなが本当の事を知らないからです。人々がどのように苦しみ、悲しんだか。次の世代にバトンを渡して、これからも伝え継がれるようになるのが、自分の使命です」

G7広島サミットで被爆体験を語った 小椋桂子さん(86)
G7広島サミットで被爆体験を語った 小椋桂子さん(86)

■終わらない戦争 

小倉さんの話を聞いたビルギットさんが考えさせられたのは、「戦後」の意味だという。たとえ戦闘が終わったとしても、人々の生活はその後も長い間、戦争の影に覆われ続ける。

「小倉さんは、原爆被爆者として自分の運命を語る勇気がなかったと話してくれました。私は、その原因は原爆の被害だけではなく、社会的な問題、差別があったからだと理解しました。つまり戦争が終わっても、その国の人々はその社会そのものにより、延々と苦しめられているのです。その意味で戦争は終わっていないのです」

そんな国は、世界にいくつもある。ビルギットさんは、そのひとつの例が米国の対テロ戦争の舞台となったアフガニスタンだという。

ビルギットさんは、これまで多くの国の「戦後」で子供たちを救ってきた。平和村で体をいやして母国に帰るとき、子供たちは大きな声で、『ナゥハウゼ!ナゥナウゼ!(家に帰れる・家に帰れる)と叫ぶ。ビルギットさんは、この声を聞くときが一番幸せだという。とはいえ、一番いいと思うのは平和村を必要としない世界になることだ。

ボランティアガイド 佐々木駿くん(10)
ボランティアガイド 佐々木駿くん(10)

■平和の希望 佐々木駿くん(10)

大人たちの戦争で苦しめられているのは、子供たちだ。一方、未来への希望となるのもまた子供達だ。ビルギットさんが広島で出会った佐々木駿くん(10)も、

その一人。7歳の時に「曾祖母が黒い雨に打たれた」という話を親から聞き、得意の英語で平和祈念公園を訪れる海外からの旅行者にボランティアガイドをしている。

「悲しみやつらい経験にもかかわらず、ここ広島で出会った仲間たちの間には「諦めないで一緒に伝えていこう」という強い意志があります。駿くんは私たちの希望です。彼からもらった折り鶴の羽には、Peaceと彼の名前が書いてありました。彼が一人でも多くの人にこれを配り、それを受け取った人々が彼の意思を伝えていけば、そのひとりひとりが平和の大使となることでしょう。ヒロシマに来て、諦めることを諦めました。希望を感じることができたのです」

そしてビルギットさんは、広島への旅をこう締めくくった。


「ドイツ国際平和村』へもぜひ来てください。そして子供たちと話す機会を持ってください。支援を待っている子供たちがいる限り、私たちは、あ・き・ら・め・ずに、戦争が意味するものを示し、伝える義務があると考えています。すべての人に平和が訪れることを願います。幸運を得した一部の人だけでなく、すべての人に」

「#戦争の記憶」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。戦後80年が迫る中、戦争当時の記録や戦争体験者の生の声に直接触れる機会は少なくなっています。しかし昨年から続くウクライナ侵攻など、現代社会においても戦争は過去のものとは言えません。こうした悲劇を繰り返さないために、戦争について知るきっかけを提供すべくコンテンツを発信していきます。

【この動画・記事は、Yahoo!ニュース エキスパート ドキュメンタリーの企画支援記事です。クリエイターが発案した企画について、編集チームが一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動はドキュメンタリー制作者をサポート・応援する目的で行っています。】

取材協力 ドイツ国際平和村 宍倉妙子

プロデューサー 梛木泰西 

        初鹿友美 

ディレクター

1965年 広島県 瀬戸内海の島生まれ。MBS「世界ウルルン滞在記」MBS「ホムカミ」など”ガチ”のヒューマンドキュメンタリーや、YTV「遠くへ行きたい」NHK「奇跡のレッスン」バレーボール編・ラグビー編など。秘境・B級グルメ・漁師・大家族のキーワードが大好きです。

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