【高畑淳子会見】”質問する”とは、そもそもどういうことだろう。
高畑淳子謝罪会見
強姦致傷容疑で逮捕された高畑裕太容疑者(22)の母親で、女優の高畑淳子(61)が、東京都内のホテルで謝罪会見を行いました。
会見中、記者から「性的な嗜好が異常と思ったことはないか」などの質問があったことをうけ、ネット上では「ひどい」「的外れ」「母親に聞くことではない」という批判が続出しました。
当の記者にしても、なにも「正義の鉄槌を下してやる」という尊大な気持ちで聞いたわけでもなく、はたまた、自らの下世話な興味から聞いたわけでもなく、あくまで、その答えを求める読者・視聴者がいると判断し、あくまで仕事として質問したのだと思います。というか、そうであってほしい(その判断が正しかったかどうかはさておき)。
報道の自由だとか、ジャーナリズムだとか言う建前の前に、多くのメディアは企業の原理で動いています。世の中にそういった情報を求める人がいなくなれば、そういった質問もなくなるはずです、理論上は。
リオ五輪 吉田沙保里インタビュー
記者の質問といえば、先日のリオ五輪で私が気になったのが、銀メダルを獲得した吉田沙保里選手へのインタビュー。
たったいま金メダルを逃したばかりの選手にインタビューをするという時点で、逃げ出したくなるような仕事。担当したインタビュアーは、落ち込む吉田選手に対して、「自分を褒めてあげてもいいのではないですか?」「(『取り返しのつかないことになってしまった』と言う吉田選手に)そんなことは誰も思っていないと思いますよ」と、フォローするような言葉を口にしていました。
もちろん、泣きじゃくる相手を目の前に、淡々とインタビューを続けるわけにもいかないとは思います。ですが、フォローし、なだめ、励ます、というのは、インタビュアーがすべきことではないような、逸脱した行為のような違和感を感じたのです。「あなたが言うこと?」と。
言うまでもなく、これはあくまで私の主観です。中には「優しいインタビュアーだな」「そう、そう。私も責めたりはしないよ」と共感した人もいるはず。というか、その方が多いだろうとは思います(だとすれば、メディアのお仕事しては大成功です)。
三島由紀夫賞 授賞会見
さらに、思い出されるのが、5月に行われた三島由紀夫賞授賞会見における蓮實重彦氏の受け答え。
意に染まない質問に対して「馬鹿な質問はやめていただけますか」「お答えしません」「お答えする必要ないでしょう」と切り返す場面がほとんど。会見は異様な空気に包まれました。
「報道陣に質問されたことには答えるのが当たり前」という、私でさえなんとなく抱いていた不文律を、あっさりと打ち砕いてみせたその姿勢は、実に衝撃的でした。「そうか! 『答えない』という選択肢があるのか」と。
お祝いの席ということもあり、取材陣は予定調和的に「うれしいです」「これからもがんばります」というサービストークを期待していたはず。さぞ驚いたことでしょう。
質問するとはどういうことか?
謝罪会見、試合直後のインタビュー、受賞会見と、趣旨も場所も異なるやり取りを十把一絡げに語ることはできません。それでも、「人に質問する」とは、どういうことなんだろうと、改めて考え込んでしまうのです。
とくにこのご時世、会見の一部始終は「一問一答」のような形式でネットニュースなどにアップされます。それはつまり、インタビューされる側だけでなく、インタビューする側の言葉も記録に残り、拡散されるということ。
目の前の人に対して、1対1で対峙する。
ものを尋ね、回答を要求する。
言いたくないことも言うよう要請する。
自分にだけ内密に、ではなく、大衆に向かって公然と、答えさせる。
人に質問する、問い尋ねる、という行為には、当たり前ですが、大きな責任が伴うということを感じずにはいられません。
批判するも同様
そしてそれは、批判する、という行為も同様です。
実名・匿名、面と向かって・ネット上で、に関わらず誰かの何かについて「いかがなものか」と意見を言うなら、それ相応の責任を覚悟しなければなりません。
誰でも意見を言うことができるこの時代、そのことを常に肝に銘じて忘れないようにしたいものです。
(五百田 達成:「察しない男 説明しない女」著者 作家・心理カウンセラー)