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共生から競争へ――20周年を迎えるJリーグの舵取り(1)

川端康生フリーライター

今年、Jリーグは20周年を迎える。

日本においてサッカーが「現在の姿」になる始点となった、あの1993年――「プロリーグの開幕」と「ドーハの悲劇」から20年が経ったということだ。

“発情”的なブーム

1993年5月15日、ヴェルディ川崎対横浜マリノス(いずれも当時のチーム名)のオープニングマッチのインパクトは圧倒的だった。

掛け値なしに超満員のスタンド、そのスタンドにはレプリカユニホームを纏い、フェイスペインティングし、チアホーンを鳴らすサポーター。そして、その真ん中でカクテル光線を浴びて躍動する選手たちの煌き。

新たに創設されたサッカーのプロリーグは新しさと若々しさに溢れ、スタジアムは興奮と高揚で膨れ上がり、サッカーファンだけでなく、サッカーに興味のない者をも惹きつける強大な吸引力を誇っていた。

NHKで生放送されたオープニングマッチの視聴率は32・4%。翌日に行なわれた試合も、翌週に行なわれた試合も、Jリーグ中継は軒並み高視聴率をたたき出し、各チャンネルがこぞってJリーグ関連の番組を放送するようになった。

ちなみにそれ以前、アマチュアの日本リーグ時代の視聴率は「視力検査」(1・2とか1・5とか)と揶揄される水準だったから、そのブームアップの急激さがわかる。

さらに同じ1993年秋、カタールから衛星中継された「ドーハの悲劇」(アメリカ・ワールドカップ最終予選・イラク戦)は深夜にもかかわらず48・1%。

「Jリーグ」を機にサッカーは突然、人気コンテンツとなったのだった。

テレビだけではない。

出版界では「Jリーグ雑誌」がまさしく雨後の筍のように創刊されて書店の棚を埋め、コンビニにはJブランドの商品が並び、CMにはJリーガーが次々と登場した。億単位の年俸を手にした若い選手たちは外車を乗り回し、時には写真週刊誌の標的にもなった。例えば「夜のハットトリック」なんてタイトルで。

あの頃が正常だったとは言わない。「Jリーグ」を取り巻く喧騒は、ブームを通り越して“発情”と言いたくなるほどの状況を呈していた。

それでも、とにかくスタジアムは活気に溢れ、Jリーガーは紛れもなくスター……Jリーグの草創期はそんな時代だった。

「身の丈経営」への転換

状況が変わるのは1998年である(状況が変わっていることが露呈したのは、という言うべきかもしれないが)。

この年10月、Jリーグ史上最大の“事件”である「横浜フリューゲルスの消滅」(横浜マリノスとの合併)が突然発表されるのである(折りしもトルシエジャパンの初陣が大阪で行なわれた夜のことだった)。

第一報は(運動部ではなく)経済部発だったと記憶している。

つまり事態の源流は、横浜フリューゲルスの親会社であった佐藤工業の経営不振。その下流の出来事として、子会社の一つであるフリューゲルスというチームが消滅する――それがニュースの本質だった。

要するにフリューゲルスは、親がかりで存在できていたということである。「企業スポーツからの脱却」を掲げて華々しく創設したJリーグではあったが、その実態は親会社からの支援で成り立っており、“自立”とは程遠いものであることが露呈したのだった。

しかも当時危機に瀕していたのは横浜フリューゲルスだけではなかった。

清水エスパルス、ヴァンフォーレ甲府、ベルマーレ平塚(現・湘南)、サガン鳥栖などがやはり経営難に陥り、運営会社の交代(倒産もしくは衣替え)を余儀なくされることになった。

1998年といえば(「ドーハの悲劇」を乗り越え、「ジョホールバルの歓喜」で)日本代表が初めてワールドカップ出場を果たした年である。

サポーターが胸躍らせ、フットボールビズが急騰していたあの頃、実はJリーグは誕生以来最大の試練を迎えていたのだった。

そんな危機的状況にJリーグは手をこまねいていたわけではない。

フリューゲルス事件の直後に経営諮問委員会を設置。クラブ経営の健全化を目指し、身の丈経営への転換を図った。身の丈経営――支出ありきではなく、収入ありきの経営である。

端的に言えば、それまでの「赤字を出したとしても親会社が補填してくれる」という安易な経営方針を改め、収入に立脚した予算組みを各クラブに課したのである。<パラサイトではなく、自立を目指せ>、そんな大号令であった。

さらに人件費の削減にも着手した。開幕直後のバブル期に天井知らずで高騰した選手の年俸を抑制するルールを作り、クラブ経営のスリム化を促したのである。

こうした施策は奏功したと言っていい(クラブ経営者たちに「経営諮問員会」は随分評判が悪かったけれど)。

フリューゲルス以後、“事件”による「悲劇」を引き起こすことなく、それどころかクラブ数を着実に増やし、全国津々浦々にJクラブが存在するという、創設時の青写真を実現していくことができた。

クラブ数の増加に伴い、クラブ間の経営格差という新たな問題も生じたが、意見調整を図りながらリーグ滞りなく運営し続けることもできた(もちろん金持ちクラブと貧乏クラブの利害調整は簡単ではなく、不満は常にくすぶってはいたけれど)。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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