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チューリングも苦しんだ法律が変わった 英国で同性愛行為が非犯罪化されるまで

小林恭子ジャーナリスト
チューリングは50ポンド紙幣の顔となった(写真:ロイター/アフロ)

(ウェブサイト「論座」が7月末で閉鎖されることになり、筆者の寄稿記事を補足・転載しています。)

 英国で成人男性による同性愛行為が犯罪ではなくなったのは1967年。19世紀の文豪オスカー・ワイルドは刑法改正法第十一条に規定されていた男同士の 「著しい猥褻行為」を犯した として逮捕され、投獄された。英国立公文書館で、非犯罪化に向けた動きを伝える文書をたどってみた。

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モンタギュー卿の告白

 「今まで、誰にも話したことはなかったんですけれどね」。

 80歳の男性が零れ落ちる涙を白いハンカチで拭いた。大きなため息をつく。「あの事件のすべてを思い出すのはつらいです。話すのはとてもつらい。強い感情がこみあげてきて、どうにもなりません」(『デイリー・メール』紙、2007年7月14日付)。

 男性の名はエドワード・ダグラス=スコット=モンタギュー(モンタギュー卿)。1950年代に当時違法だった同性愛行為を行ったとして裁判にかけられ、有罪となった過去を持つ。

 この裁判をきっかけに男性の同性愛行為を違法とする法律を見直すための「ウオルフェデン委員会」が設置され、国会での議論や法改正を推進する人々の運動によって、1967年の性犯罪法が成立する。

 この法律で21歳以上の男性同士の同性愛行為が非犯罪化されたことで、性的少数者の市民権獲得につながった。

モンタギュー卿の人生

 彼の人生を振り返ってみる。

 ロンドン・サウスケンジントンで生まれたモンタギュー卿は、事故死した父ジョンから男爵の地位を2歳で受け継いだ。名門イートン校からオックスフォード大学というエリート層のお決まりのコースを経た後、17世紀に端を発する「近衛歩兵グレナディア連隊」の中尉としてパレスチナなどで従軍。21歳で貴族院に入り、イングランド地方南岸にある邸宅「ビューリー宮殿」の敷地内に自動車博物館を建設し、その充実に力を入れた。

 1950年代に入り、警察の取り締まりの対象に同性愛者が入ってきた。保守党政権のデービッド・マクスウェル・ファイフ内相(在職1951~54年)は「男性が行う悪」に対し新たな取り締まりを行うと約束し、年間約1000人が投獄される事態となった。

 捜査の網にからめとられた一人がモンタギュー卿である。

カメラの盗難が意外な事態に

 1953年、モンタギュー卿は邸宅の敷地内でボーイ・スカウトの一団が野営をした後で、自分のカメラが盗まれていたことに気づいた。これを警察に届け出たモンタギュー卿は、カメラ盗難の捜査が開始されると思っていた。

 しかし、警察はモンタギュー卿を14歳のボーイ・スカウトの少年と性的行為を行った容疑で逮捕した。裁判では無罪で終わったが、「魔女狩り」は続いた。

 翌年、モンタギュー卿は敷地内のパーティーに来ていた友人の新聞記者と富豪とともに逮捕され、「男性と重大な犯罪行為を行うよう扇動する行為に加わった罪」で起訴された。

 男性との「重大な犯罪行為」とは性行為を意味する。この時までに同罪で最後に起訴されたのは、1895年、作家オスカー・ワイルド(『ドリアン・グレイの肖像』、『サロメ』など)である。

 1954年3月、3人は有罪となり、モンタギュー卿は1年の禁固刑となった。

ウオルフェンデンの報告書

 世間の非難の嵐に見舞われるだろうと予想したモンタギュー卿。しかし、そうはならなかった。米国の反共産主義運動「マッカーシズム」を思わせるような、同性愛者に対する粛清に対し、国民が非難の矛先を向けたのは警察や司法当局であった。

 この年の8月、ファイフ内相は同性愛と売春についての法律を見直すための委員会を設置し、委員長にレディング大学の副学長ジョン・ウオルフェンデンを任命した。

 1957年、ウオルフェンデン委員会は155ページにわたる報告書を発表し、「私的な道徳規範に関わる事柄については個人の自由を尊重するべき」としたが、同性愛行為を容認するのでも非難するのでもないと強調した。21歳以上の「成人」同士が「私的な空間で」同意のもとに行為を行う場合、そのような行為は非犯罪化されるべきだと結論付けた。

 同性愛を異性愛と同等に置いたわけではないが、大きく一歩踏み込んだ見解を示したものと言えよう。この頃、同性愛と言えば男性を対象としたものであり、女性は対象に入っていなかった。

 しかし、ウオルフェンデン報告書はすぐに法律改正には結びつかなかった。

ロビー団体の活躍

 公文書館には1967年の性犯罪法成立までの政府と改正支援組織間のやり取り、議会での討論の様子、関連の新聞記事などをまとめたファイルがある。

 これによると、1950年代末からすでに法改正を呼びかける書簡が新聞に掲載され、政治家のロビー運動が続いてきたが、60年代も半ば頃になると人々の関心が薄れだした。

 1965年5月4日、学者、企業経営者、政治家、ジャーナリストなどが結成したロビー団体「同性愛法改革協会」の代表者はロイ・ジェンキンス内相と非公式の会合を持った。

 会合の様子をまとめた文書によると、内相は「個人的には委員会の報告書の推薦事項の法制化には前向き」だが、「世論はまだ受け入れの準備ができないと思う」と述べた。

 協会側の意見として、哲学者A.J. エアー教授がなぜ法改正が必要であるかを説明した。

 「相当数の性的少数者がいる。正確な数字はないが、同性愛者であるかあるいは同性愛にまつわる事柄で悩んでいる人は50万人から100万人に相当する」

 「成人同士の同性愛行為は刑事犯罪となるので、脅迫の温床になる」

 「刑事犯罪となっているために、多くの同性愛者が医療支援を求めたがらない」

 こうした論点よりもはるかに重要なこととして、教授は現在の法律は「基本的に不公正」と指摘する。「同性愛行為を阻止するようには働かず、地下に潜らせるだけだ」。

 ジェンキンス内相は論点を十分考慮し、同性愛行為の非犯罪化を支持するアラン卿が貴族院に提出した改正法の討論にも役立つだろうと述べて書簡は終わっている。

 翌1966年2月、同性愛法改革協会はウィルソン首相に向けて早期の法制化を求める書簡を作成し、これを協会のエアー会長がジェンキンス内相に手渡した。

 書簡にはヨーク大司教を含む国教会の聖職者幹部、王立協会や英国学士院のメンバー、主要大学の教授陣など500人が名を連ねた。

 アラン卿の性犯罪法案は前年に貴族院を通過し、庶民院で同様の法案の議論が週内に始まるところだった。

 世論調査では3分の2が既存の性犯罪法に関わるほうを変えるべきと考えている」と指摘し、「不公平」と見られる法律を残しておく必要はない、と書簡は記した。

 イングランド・ウェールズ地方で21歳以上の2人の男性による同性愛的行為を非犯罪化する性犯罪法が成立したのは1967年7月。スコットランド地方では1980年に、英領北アイルランドでは1982年に同様の法体制となった。

同性愛者であることを公表した議員

 その後の動きを記しておこう。

 1971年、ロンドンで最初の同性愛者の行進が行われている。

 1984年、クリス・スミス労働党議員は英国の現職の国会議員として初めて同性愛者であることを公表した。

 1994年、同性愛行為の同意の年齢が21歳から18歳に変更された。同意年齢が異性愛者も同性愛者も同じ16歳になったのは2001年になる。

 2005年、同性同士のカップルの権利保護と婚姻の代替制度として「シビル・パートナーシップ」が導入された。2014年、イングランド・ウェールズ地方及びスコットランド地方で同性婚が合法化した。現在までに、シビル・パートナーシップは異性カップルも結ぶことができるようになった。

 冒頭に紹介したモンタギュー卿は事件後、自動車博物館に改めて力を入れ、実り多い人生を送った。自分は「両性愛者だ」とし、2回女性と結婚した。1984年から92年まではイングランドの歴史的建造物を保護する目的で設立された慈善組織「イングリッシュ・ヘリテジ」の会長を務めた。2015年、同性婚合法化を見届けてから亡くなった。享年89歳

 同性愛行為の非犯罪化が実現して半世紀だが、過去に違法な行為をしたとして汚名が付いた人をどうするのか?

失意で亡くなった、「エニグマ」解読のチューリング

 同性愛行為が違法だった頃、失意のままに亡くなった男性の1人に、第2次大戦中にドイツ軍の暗号エニグマを解読し、対独戦争を勝利に導いた数学者アラン・チューリング(1912~54年)がいた。

 1952年、39歳のチューリングはある男性と知り合い、同性愛関係を結んだ。後に自宅に泥棒が入り、これを警察に通報したところ、犯罪の手引きをしたのがこの青年であることが分かり、チューリングの同性愛関係が警察に知られてしまった。

 チューリングは弁護士のアドバイスを受けて有罪の申し立てをした。入獄か保護観察かの選択を迫られ、チューリングは後者を選んだが、その代わりに性欲を抑えるためのホルモン注射をしなければならなくなった。

 有罪は仕事にも影響した。英通信本部での暗号業務に参加できなくなったのである。家族や職場の仲間や上司にも知られてしまった。独り身のチューリングを襲った重圧や孤独感は計り知れない。

 1954年8月、チューリングが自宅で死んでいることを家政婦が発見した。死因審問で自殺とされたが、家族は事故死と解釈した。

 2009年、ゴードン・ブラウン首相(当時)はチューリングを当時の性犯罪法で有罪として罰したことを謝罪した。4年後の2013年、エリザベス女王はチューリングを赦免する。これを通称「チューリング法」と呼ぶ。

 このチューリング法をほかの同性愛の男性にも適用するべきという声が次第に大きくなり、2017年1月、イングランド・ウェールズ地方で旧性犯罪法で有罪となったまま亡くなった男性たちが赦免された。生存している男性についても、申請があれば赦免される。同性愛者の人権擁護団体「ストーンウォール・カムリ」は自動的に赦免されるよう、運動を行っている。

 1967年の性犯罪法は同性愛行為を非犯罪化し、同性婚が可能になるまでの道筋を作ったという意味でその功績は大きい。しかし、過去に有罪となった人への謝罪や赦免という形での人権回復はあまりにも遅かった。

 同性愛行為で有罪とされた男性はイングランド・ウェールズ地方で推計6万5000人を超える(BBCニュース、2017年7月6日)。その中で1万5000人が存命中と言われている。

 チューリング法適用への申請は、政府のサイトから行うことができる。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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