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伝説のユニットコント番組『夢で逢えたら』を作った男

てれびのスキマライター。テレビっ子
「夢で逢えたら」らが収録されているCD『夢で逢えたら メモリアル アルバム』

11月20日に放送された『内村と相棒』(フジテレビ)で、「名曲誕生!?誰でもソングライターズ」という企画があった。「カノン進行」を使えば元気になる応援ソングを作れるのではないかというものだ。

これに挑戦したひとりが清水ミチコだ。清水といえば、内村光良とは伝説のユニットコント番組『夢で逢えたら』(フジテレビ)で共演していた盟友。彼女は「ウッチャンを元気にさせよう」という応援ソングを制作し、内村の前で歌い上げた。

その曲には、「ひとりの夜に 流れる歌に」という関東ローカル時代の『夢で逢えたら』でメンバー6人で歌っていた同名主題歌の1フレーズを引用されていた。また、内村が「タイトルも俺らにしかわからないところがある」というように「星のカノン」というタイトルは、『夢で逢えたら』を演出した星野淳一郎から採ったものだろう(ちなみに引用された主題歌の作詞も星野によるものだ)。

11月16日放送の『あちこちオードリー』(テレビ東京)に清水ミチコがゲスト出演した際も、『夢で逢えたら』の話題になった。ダンスコーナーがあり、それがみんな嫌だったため、「徒党を組んでストをやった」というエピソード。「わたしたちは踊りません」と扉に書いて楽屋に引きこもるという“事件”があったという。

清水「その時のディレクターの星野さんっていうでっかい男がいて、その人が『出ろ!』って言ったら『はい…』って。逆らえなかった(笑)」

(『あちこちオードリー』22年11月16日)

「星のカノン」には「ほしの ような声が きっと そっと よみがえる」という歌詞もあるが、星野淳一郎は2017年12月1日に亡くなった。享年57。あまりに早すぎる別れだった。

その男は清水が言うように、とてつもなく大きかったという。

身長190センチ近くある大男で、ロシア人のような日本人離れした顔立ち。常に目につく存在だった。

けれど、大きかったのは体躯だけではない。

その存在感は、並みいるディレクターを凌駕していた。

フリーランスのディレクターとして『ダウンタウンのごっつええ感じ』(以下、番組はいずれもフジテレビ)などを手掛けた名演出家である。彼は『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』などの吉田正樹と同年代の“ライバル”として切磋琢磨し、ダウンタウンやウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコによるユニットコント番組『夢で逢えたら』を吉田とともに生み出した。また、『ごっつええ感じ』の小松純也や『めちゃ×2イケてるッ!』の片岡飛鳥がともに「師匠」的存在として慕っていた。

学生バイト時代の偉大な功績

星野淳一郎の名が初めてテレビ史に刻まれたのは、まだ彼が学生時代のことだ。

星野は早稲田実業学校でブラスバンド部に在籍していた。その先輩に『THE MANZAI』のディレクターのひとりでのちに『オレたちひょうきん族』で「ひょうきんディレクターズ」のひとりとなる永峰明がいた。星野が15歳のときには、永峰がフジテレビに入社。それを見て、テレビの世界に憧れを抱いた星野は、高校に通いながら17歳でバイトとしてフジテレビに出入りすることになった。

横澤彪が指揮する、いわゆる「横澤班」。それが形成されて間もなく、星野もそこにいたのだ。

そして1980年代初頭、「マンザイブーム」を巻き起こした『THE MANZAI』が立ち上がる。

当時、演芸といえば、中高年のための娯楽というイメージが強かったが、『THE MANZAI』は若者に熱烈に支持された。

その大きな要因のひとつとして挙げられるのは客席だ。そこには若者が集っていた。同じ世代の人たちが集まり熱狂している。その様を見てどんどんと伝染していったのだ。

番組プロデューサーの横澤彪はこう証言している。

横澤「大学の落語研究会とかプロレス研究会とか、笑いに理解があって賑やかにしてくれそうなところに電話して、見に来てもらってました」

(※山中伊知郎:監修『テレビお笑いタレント史』)

「笑い屋」のおばさんを雇うのをやめ、大学のサークルに電話して、約400人の学生たちを集めたのだ。

そのアイデアを出した人物こそ、実は星野淳一郎だったのだ。横澤は吉田正樹との対談でこのように語っている。

横澤「『THE MANZAI』でスタジオに呼ぶお客さんをどうしようかという時に、あいつ(星野)にはアイデアがあるわけ。例えば、大学のお笑い系サークルに電話をして、ギャラがいるのかいらないのか、来るのか来ないのかを聞いてみましょうよ、なんてことを言い出すんです。『THE MANZAI』で学生にターゲットに当てたのも、彼の意見からですよ」

(※吉田正樹:著『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ』)

スーパーAD

星野淳一郎は、「素晴らしい演出家だった」と言われている。

だが、同僚として長年間近で星野と接してきた吉田正樹の実感は違う。

「スーパーAD」

それこそが、星野をもっとも的確にあらわした形容だという。

つまり、いかに80年代のテレビは現場が回していたか、現場が面白かったかということだ、と。

横澤班は、『THE MANZAI』がヒットするとそのメンバーを中心に昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』を制作。そして、その後継番組として、タモリを司会に抜擢した『笑っていいとも!』が生まれた。

星野はこの番組立ち上げ時から、チーフADだった。

『いいとも』では、1カメからハンディの5カメまである。当然1カメが一番重要で、「テレフォンショッキング」は、その1カメからの目線となる。また、アルタの控室、つまりプロデューサーの横澤たちがいる本部席が扉1枚挟んである。

ここのモニター横に仁王立ちしていたのが星野淳一郎だった。

毎日、ここから離れない。1カメ横は常にタモリの目線に入る位置。実質的に全体を指揮するポジションだった。

タモリさんの目線からオレは外れられないんだ」と。

まさに“アルタの主”。

アルタはオレが仕切ってるんだ。生放送が始まってしまえば、ディレクターよりもすべての権限はオレにある。タモリさん、オレを見ろ

そんなプライドを持って、現場を仕切っていたのだ。

ADの人事や、誰をどこにつけるのかまで全部取り仕切り、出演者側とのギャラ交渉まで彼がやっていた。だから、若いディレクターもADである彼の言うことを聞かなければならないくらいだったという。

星野は、『笑っていいとも!』という生放送のドラマ性、台本には書けないこともあるんだということを本質的に知っていた。番組の最初に起こったことを同時間に処理して、その日の結末にちゃんと回収する。あるいは前日に起こった出来事をどこで生かすかということを常に考えていた。

たとえば、「テレフォンショッキング」のお友達紹介で間違い電話をしたら、その間違えた人を呼んでしまう。さらに、その人を年末の『特大号』にまで呼んでしまう。起こったことをダイナミックに回収することに長けていた。

それはタモリの生放送観にも見事に合致していた。

吉田正樹は星野への弔事でその仕事っぷりをこのように綴っている。

毎日の笑っていいいとも!スタジオアルタの下手に仁王立ちして、どんなことがあってもこの場は俺が支えるというまさに無双の存在でした。

几帳面で豪胆、最悪の事態を悲観論で準備して、本番は何があっても『しゃーねーや』と最高の楽観論で楽しんでゆく。

タモリさんとの信頼、そして当時の最高の出演者のなかでうまれた、フジテレビらしい幸せな空気でした」

夢で逢えたら

伝説のユニットコント番組『夢で逢えたら』は、星野淳一郎と吉田正樹が作ったものだ。

星野と吉田は、年齢も近く、良き友であり、良きライバルだった。

だが、吉田にとって星野はひとつ年下。にもかかわらず、キャリアも長いため、『いいとも』では一足先にディレクターに昇格され、屈辱を味わった。誰よりもその実力を知っていたが、それを認めたくないようなそんな存在だったのだろう。

ある時、佐藤義和に吉田はこう言われた。

「『ひょうきん族』はいずれ終わる。そろそろ次の時代の準備をしよう」

そうして集められたのが、若き日のダウンタウンとウッチャンナンチャン、野沢直子と清水ミチコだった。

佐藤からは、ディレクターとしてパートナーは誰がいいかを訊かれた。吉田の脳裏に真っ先に浮かんだのは星野だった。だが、素直に星野とは言いたくなかった。ディレクターとしての星野の能力が高いことは間違いない。自分の感情では星野に頼りたくないという思いもある。けれど、この番組を成功させるためには、星野の力が必要だ。“理”を取ったのだ。

CGや実写を融合したオシャレなPVのようなオープニング映像を作ったのも星野だったし、コントの台本もほとんど星野自身が書いた。作家が書いたものももちろんあったが、彼はすべてそれをリライトしていった。

オレは笑いでは負けない

星野には絶対的な自信があった。なぜなら、作家は会議に来たときにしか番組のことを考えない。だが、自分は風呂に入っているときもメシを食っているときも、寝てるときでさえもずっと考えてる。だから作家たちよりも面白いことを考えられるのは当たり前だ、と。

『夢で逢えたら』は若者の間で熱狂的に支持され、わずか半年で23時台に進出。メンバーもそれぞれ人気を獲得していった。

神様みたいな人

そんな時、転機が訪れる。

『とんねるずのみなさんのおかげです』が半年間休止するというのだ。とんねるずがドラマに出るからというのが理由だった。

そこで白羽の矢が立ったのがウッチャンナンチャンだった。

これに対し、星野は大反対だった。ゴールデンに進出するなら『夢で逢えたら』のメンバー全員でという思いが強かったからだ。もちろん、吉田も基本的にはその考えだった。だが、“誰かがやらねば”いけない状況。フジテレビの社員としてそんな状況で任せたいと言われれば、意気に感じ使命感に燃える部分もあった。こうして始まったのがタイトルもそのまま『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』。半年限定だったが視聴率も好評だったため、これをリニューアルして土曜8時に『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば』が始まった。

『ダウンタウンのごっつええ感じ』が始まる際も、当初、星野は反対していた。

だが、これを作ることができるのは、星野を置いて他にはいない。吉田は星野への説得にかり出された。もし断られたら自分がやる。そう腹を決めて説得すると星野は渋々了承。『ごっつ』でも星野は、すべてのコントの演出を担当した。

この番組でダウンタウンは猛烈な勢いで自分たちの笑いを提示し、天下を獲っていった。

星野を「神様みたいな人」という高須はこのようなエピソードを語っている。

高須「俺な、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)の頃、星野さんにいつも文句言ってたんよ。もっと目立つような激しいことやろうって。でも星野さんはずっと「ブームになったら終わりだ」って言うて、当時の俺はその意味がわからへんかってん。でもあの人はテレビがどういうものか見えてたから、俺らが勢いづいて騒いでるのをきっちり押さえてくれたんやと思う」

(※『Quick Japan』Vol.88)

しかし、『ごっつ』の途中で突然星野は番組を去ることになった。

『ごっつ』の演出は『夢で逢えたら』からADとして星野に薫陶を受けた小松純也が引き継ぐことになった。

小松「(星野さんに)『視聴率はお前と視聴者の距離だ』って言われて、そうだな、と思いましたね。いわゆる、誰のために番組を作っているのかということ。制作者と出演者の距離感はどうあるべきかとか、そういうことも含めて教わりましたね。(略)例えば演者が何をやろうかって演じ方を考えている時には話しかけちゃダメ。そういうデリカシーっていうのは、ディレクターの大事なスキルだと思います。演者のやりようの工夫、創意をめぐらせるストロークを作ってあげる。だから芸人と仲良くなってこんな内輪話が撮れたとか、収入がいくらって言ったとか、そんなことまでテレビで言わせる関係性を作る制作者っていうのはどうかなと。本当にやめてくれよって思います。芸人さんと飲みに行って「面白いことやりたいな」ってくだをまくのが仕事じゃないと思うんです。その人がどうやったら視聴者に面白く届くかを客観的に考える。その人を活かせる企画を真摯に考えるのがテレビマンのすべきことなんじゃないかと。それは星野淳一郎さんに学んだことですね」

(「文春オンライン」 2017/05/02)

星野淳一郎の帰還

タモリ、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコ、今田耕司、東野幸治、勝俣州和ら錚々たるメンバーが参列した星野淳一郎の葬儀の際に、流れていた『夢で逢えたら』で歌われた「Forever Friends」は、「中沢恵二」というペンネームで星野が作詞した曲だ。

それにこんな一節がある。

Forever Friends 忘れないよ どんなに悲しくても

Forever Tomorrow 同じ瞬間(とき)をわけあう友達がいる

いつか別の人生(みち)を選び

この街旅立つ 朝が来ても

きっとどこかで逢えるから

また逢う誓いはかわさないよ

93年に『やるやら』で不慮の事故が起き打ち切り、94年ころに星野が『ごっつ』をやめ、97年に『ごっつ』が終わる。だからその時期、吉田たちにとっては“暗黒時代”だった。

このままでは21世紀を迎えられない。

吉田正樹はプロデューサーとして内村光良とネプチューンによるコント番組『笑う犬の生活』を立ち上げる。

ディレクターは小松純也。

そしてもうひとりのプロデューサーとして、吉田は『ごっつ』以来フジテレビから離れていたあの男を呼び戻した。

星野淳一郎である。

コント冬の時代と呼ばれた中で、内村らと星野たち3人はコント番組を復活させ、フジテレビを象徴する番組のひとつにまで押し上げたのだ。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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