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誕生45周年 挑戦者の“人生を棒に振る”魔力を秘めた『アメリカ横断ウルトラクイズ』とは何だったのか

てれびのスキマライター。テレビっ子
1977年10月20日の朝日新聞のラテ欄

今から45年前の1977年10月20日に伝説の番組が産声を上げた。

『木曜スペシャル』の枠で放送された『史上最大!アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ)である。

元々は「日本テレビ開局25周年記念番組」として企画されたが、以降1992年まで毎年秋に放送される超人気番組となった(1998年に1度復活)。

第1回大会の挑戦者は404人。そこから倍々ゲームのように増えていき、ピーク時は、28,000人を超える挑戦者が1次予選会場を埋め尽くした。

放送開始当時は、視聴者参加型のクイズ番組が真っ盛りだった。1ドル360円で、海外旅行が庶民の「夢」だった時代、その優勝商品の多くが「ハワイ旅行」などの海外旅行だった。

だったら、旅行自体を番組にすればいいのではないか――。

そんな逆転の発想から生まれたのが『アメリカ横断ウルトラクイズ』だった。

「人生捨てます!」

その最大の特徴は、1次予選を勝ち抜くと、ツアーが始まるということだ。

決勝まで進むことになれば、1ヶ月近くの拘束を余儀なくされてしまう。大学生はともかく、社会人にとってその負担と代償はあまりに大きい。今でこそ、多様な働き方が尊重されつつあるが、当時は今以上に会社に忠誠を尽くすという考え方が一般的。クイズに出るために1ヶ月近く休むなんて通常では考えられなかった。

だから1次予選を勝ち抜いても2次予選の成田空港に来ることを「辞退」するものも少なくなかった。

常識的に考えれば、それが「正しい」判断だろう。

クイズ番組に出るために「人生を棒に振る」なんてバカげている。けれど、そうは考えない人たちが成田空港に集うのだ。

ある者は「人生捨てます!」と宣言し、数日後に迫った就職試験を反故にしてじゃんけんに挑み、ある者は、「有給休暇の範囲内ならいいが、それ以上伸びたらキミの将来のために良くない」と脅され、辞表を出す覚悟で勝ち進んだ。

そうまでして得られる優勝賞品は、「砂漠のど真ん中の土地」だったり、「自分で組み立てなければならない小型飛行機」、「超絶駆け足の世界一周の旅」、「満潮時にはほとんどが水没してしまう小島」などまったく役に立たないものばかりだった。

けれど、役に立たないからと言って価値がないわけではない。

それこそが、彼らにとって「ロマン」だった。

2次予選がおよそクイズの実力とは無関係の運だけの勝負「じゃんけん」や「腕相撲」だったことや「知力・体力・時の運」というキャッチフレーズが象徴するように、クイズの実力だけでは勝ち進めない理不尽さも、挑戦者たちをより夢中にさせた。

そして何より、その類を見ないスケール感に魅了された。そこには「非日常」の一大スペクタクルがあったのだ。

『ウルトラ』の憲法・前文

『ウルトラクイズ』の中でもとりわけ“伝説”の回と呼ばれる『第13回ウルトラクイズ』(優勝は長戸勇人)に出場した若者たちの青春群像ノンフィクション『史上最大の木曜日』(双葉社)を執筆するにあたり、筆者は、『第13回』で総合演出を務めた加藤就一氏に取材することができた。

『第5回』からADとして参加し、『第11回』から総合演出となった人物だ。

その加藤氏から聞いた中でもっとも印象的だったことのひとつが、番組を立ち上げた佐藤孝吉プロデューサーが掲げていた“憲法・前文”のような絶対的番組コンセプトがあったという話。

それが「太平洋戦争で負けた日本がアメリカをジャックする」というもの。

『第7回』でディレクターデビューした際も、アメリカ西部の開拓史が書かれた分厚い書籍を読むことを課せられたという。『ウルトラクイズ』を撮るためにはフロンティア精神が必須だったのだ。

そんなコンセプトをもっとも体現した「クイズ」のひとつが、『第13回』の第12チェックポイントで行われた「コンボイリレークイズ」だ。

1989年11月23日放送の『第13回ウルトラクイズ』第5週目より(筆者が画面キャプチャ)
1989年11月23日放送の『第13回ウルトラクイズ』第5週目より(筆者が画面キャプチャ)

「コンボイクイズ」は、チムニーロックの50キロにわたる広大な直線の道を6台の巨大なコンボイが走り抜けるという、スケールの大きな『ウルトラ』の中においてもとりわけスケールの大きな形式だった。

クイズのためだけにその道を封鎖してしまうのだ。これはアメリカを“乗っ取っている”ぞ、と加藤は興奮した。

だが、問題は山積みだった。

まずクイズの最中、農場などに続く横道から車が入ってきたら台無しになってしまう。コーディネーターたちと第2次のロケハンでこの地を訪れた際、1軒1軒、「この日の何時から何時までこのようなことをやるのでどうか出かけないでください」と丁寧に説得して回った。だが、それだけでは心もとない。当日まで何度も何度もしつこいくらい繰り返しお願いした。

さらに撮影するためにはヘリコプターによる空撮が不可欠だ。今のようにドローンも存在していない時代。道路標識や高圧電線を避けながら、低空飛行で走るコンボイの真横につける正確な操縦技術がなくてはならない。そんなことができる人物がいるのか。加藤はひとりだけ思い当たる男がいた。

クレイグ・ホスキンスだ。

彼はなんと幼稚園児の頃からヘリコプターに乗り、数多くのハリウッド映画の空撮シーン・コーディネーターを務めるヘリコプターパイロットだ。鉛筆をヘリコプターの下部にとりつけ地上にある電動鉛筆削りで削ることができるほどの凄腕の持ち主。彼以外に考えられなかった。

企画内容をホスキンスに説明すると「面白そうだ」と前向きになった。ただしひとつだけ条件があった。

「自分のヘリコプターでやらせてくれ」

自宅のロスからチムニーロックまで行くから、その間の給油ポイントで給油させてほしいというのだ。その分予算はかさむが止むを得ない。実際に現地にやってきた彼の操縦テクニックを見れば、そんなものは安いものだと思った。

(『史上最大の木曜日』より)

当時ドル箱ともいわれ、莫大な予算がかけられた『ウルトラクイズ』といえども、もちろん予算は限られている。ただし、予算を出し渋ってしまうと『ウルトラ』に見合うスケールやスペクタクルは生み出せない。

そこで加藤たちが考えるのはどうメリハリをつけるかだ。

十数箇所のチェックポイントそれぞれにバランスよく予算を配分してしまえば、すべてが中途半端なものになってしまう。そうではなく、ここが見せ場だという場所に惜しみなく予算を使う。そうすることによって最大の効果を生み出すのだ。

放送上はこのチムニーロックが、第5週目つまり最終週のオープニングに当たる。ここで大迫力のクイズを見せようと考えたのだ。

その本番直前の前日、さらなる問題に直面するのだが――。

加藤は徹底して「非日常」感にこだわった。それが“テレビの使命”のひとつだと確信していた。『ウルトラクイズ』が映すべきなのは「非日常」なのだ。バカバカしいまでにスケールの大きな見たことのない非日常を作り出す。そのためにはどんな障害も厭わなかった。

(『史上最大の木曜日』より)

そうしてひとつひとつ問題を解決していき生まれたのが、「コンボイリレークイズ」だった。リレークイズをやるだけならコンボイを使う理由はまったくない。

けれど、そうした大いなるムダこそが、挑戦者たちに「人生を棒に振ってでも挑戦したい」と思わせる「ロマン」を生んだのだ。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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